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9/6巻頭言「政権の終わりに思うー忖度現象と真の教養」

2020年8月28日。安倍首相は持病の潰瘍性大腸炎が悪化し職務遂行に支障がでる恐れがあることを理由に退陣を発表した。会見での安倍首相のことばには力がなかったように見えた。意気消沈していたこともあるだろう。ただ私には、それほどに具合が悪いのだと感じられた。実は、私は潰瘍性大腸炎を20年来患っている。この病は、こじらせると出血が止まらず貧血を起こす。当日のニュース映像には、朝の閣議で元気そうだった首相が、夕方の会見ではあの状態になる。「ああ、僕もそうだったなあ」と思いながら会見を見ていた。安倍政権の七年余りを振り返り、多くの人々が批判している。論点の一つが「権力の私物化」。公文書改ざん、モリカケ問題、桜、恣意的人事など、問題、疑惑については枚挙にいとまがない。解明されないままの幕引きとなった。これらについては優れた論考がすでに「論座」などにも出ている。
私は「忖度という現象」に危機感を覚えた。権力が巨大化する中で、何ら強権発動をしなくても「総理のご意向を忖度する心情」が働いた。これは権力、しかも独裁的な権力においては最終形状であると思う。「総理案件」に多くの人が「忖度」した。それのみならず、現代の日本社会において、誰に言われるまでもなく一定の方向や枠組みに身を寄せる、あるいは「そうしなければいけない」と思う人が少なくないように思う。この契機となった、あるいはそれを象徴したのが、かの「忖度現象」だった。これは、単に権力者の在り方のみならず、進んで権力に組みする心情を持つ「民衆」側の問題でもある。
ただ「忖度」という言葉自体は、「他人の心をおしはかること。また、おしはかって相手に配慮すること」であり、ネガティブな言葉ではなく、むしろ「人としての思いやり」に通じる事柄だ。養老孟司は「教養はものを識ることとは関係がない。やっぱり人の心がわかる心というしかないのである。それがいわば日本風の教養の定義なのであろう。」(養老孟司 『まともな人』中公新書)と述べているが、「忖度」は、日本における教養そのものなのだ。だが、「かの忖度現象」はそれとは違う。「かの忖度」は、「人の気持ち」という時の「人」が権力者に限定されており、目的は「自己保身」。養老の言う「教養」は、他者への共感や同情を生むモメントであり、人が人として共に生きる中で重要な事柄であり、人を生かすものだと言える。
しかし、「かの忖度」は人を殺す。上司から公文書の改ざんを命じられた近畿財務局の職員はそれを苦に自死に追い込まれた。「友達や知り合いを優遇したいと『あの方』は思われている」と「教養人だと言われている官僚」が、まるで「思考停止」したかのように、これもまた教養の本質である「公正」をないがしろにした。命を絶つにいたるまで苦しんだ仲間の気持ちを「忖度」できず、彼らは「無教養な人」となった。首相は「私は指示していない」と言うが、全く知らなかったかは疑問だ。だが、問題は「指示しなくても周りが動く」という状態そのものにある。みながそんな「重い空気」を感じていたのだ。目に見えない「空気の支配」。「思いやり」や「おもてなし」が、「悪しき忖度」に終わるか、「真の教養」となるか。政権の終わりに私たちは、それを総括しなければならない。

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