教会

9/30巻頭言「今日、『すべて』という意味について」

 昨日は、第9回東八幡楽会が開催された。来年から始まる中長期計画について、一日かけ皆で話し合った。長丁場だったので、疲れた方もおられたと思うが大変有意義なひと時となった。少々、参加者が少なったかったことが残念だが、来春に向けて今後一層議論を重ねたい。中長期計画は、2019年度からの6年間を指す。
 中長期計画案では、以下のような方向が示された。「目指す教会の姿は、『すべて』がキーワードとなります。例えば、『すべての人がすでに神に愛されていると公言する教会』『すべてのいのちを大切にする教会』『すべての人とつながる教会―帰る場所(ホーム)としての教会』といった具合です。本来、教会が宣教すべきキリストの福音は、すべての人に向けられたもののはずです。しかし、教会はその歴史の中で繰り返し、その福音を一部の人の独占物にしようとしてきました。その最たる表れが、救われた人とそうでない人との分断です。また、私たちの生きる現代社会にも様々な分断があり、普遍的な価値の見えにくい時代となっています。」
 「すべて」は、今、最も重要なことばの一つだ。上記の文章が指摘している通り、「分断」が進む現代社会に対抗することば、それが「すべて」。2年前、相模原市の障がい者施設「津久井山百合園」が襲撃され19人の障がい者が殺害された。犯人の青年は、重い障がいのある人を「意味のないいのち」とした。いのちという普遍的で絶対的なものが「意味のあるいのち」と「意味のないいのち」に分断されたのだ。自民党の国会議員である杉田水脈議員は、「LGBTは生産性がない」と雑誌に寄稿し話題になっている。彼女の言う「生産性」は、子どもを産むことらしいが、そもそも子どもは「生産」するものではない。また、私達は一貫して沖縄を分断してきた。米軍基地の7割を平気で押し付けることが出来るのは、他人ごとにしている証拠である。
 このように私達は、分断の時代を生きている。しかし、さらに問題は、かく言う私達キリスト者が、実は分断の張本人でもあったということに他ならない。「福音を一部の人の独占物にしようとしてきました。その最たる表れが、救われた人とそうでない人との分断」。教会は、神の救いをクリスチャンのみに限定してきたのだ。「すべての人が救われている」と宣言することに問題があるのか。なぜ、そんな当然のことが宣言できないのか。あるいは、教会がそのように宣言することで一体誰が困るというのか。困るとすれば、これまで「クリスチャンにならないと救われませんよ。天国に行けませんよ」と教えてきた教会自身だ。
 イエスは言う。「天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである」(マタイ五章)。悪い者も正しい者も、つまり、すべての人を神は祝されている。これの何が悪い。中長期計画が楽しみだ。

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