これまでの松ちゃんなら、お金を持った途端、糸の切れた凧のように飛んでいった。そんな「立派な実績」からすると「一緒についていく」のが無難だが。長年現場で「支援」ということを考えてきたが、そこは単純ではない。そもそも「支援する」ということと「助けてあげる」ということは違う。「助けてあげる」という場面もある。切羽詰まった場面では、そういう一方的な働きかけが必要となる。だが「支援」は、もっと主体的であり、相互的な関係の中で成立する。それは出会いの中で起こる「出来事」なのだ。問題が解決したかどうかなどという単純なことではなく、「松ちゃんが松ちゃんとして」自分の人生の物語を生きていくかが重要で、その中に出会った人々がどれだけ登場するかということが問われる。
かつては「支援者」と自認する専門家が「無知な当事者」に代わってすべてを決めていた。現在では「当事者の主体」が何よりも大事にされている。ただ、これは「本人が望むことをしてあげる」ということではない。それでは形を変えた「自己責任論」で終わる。支援は対等な出会いによって成立し、そこでは主体のぶつかり合いが生じる。「優秀な支援者」になるほど先回りして「失敗を阻止」しようとする。「優秀な支援者」ほど「先が読める」のだ。だからと言って、支援者が「失敗しないようにする」ことが支援だとは思わない。なぜなら、人は「失敗する権利」を持っているからだ。それを奪ってはならない。それが伴走型支援だ。
そもそも「それが失敗」であるかも分からない。人は「失敗」の中で学ぶし成長する。となると、それは成長のために必要なステップだとも言える。専門家が「失敗だ」と決めつける出来事の中に、人の真実があり、なぜそうならざるを得ないのかという、その人の人生が見え隠れする。その中で支援者もまた。自分の支援の「間違い・失敗」に気付かされる。
僕は、松ちゃんに任せることにした。繰り返すがこれまでの「実績」からすると、とても怖くてお金を渡せないが、その日は、ボールを投げることにした。松ちゃんが目的を達し、ちゃんと帰ってきたら「最初のボール」が返ってきたことになる。それを楽しみに待つ。
玄関で松ちゃんを見送る。「ちゃんと帰ってきてね」と言う僕に「大船に乗った気持ちで待っててください」と答える松ちゃん。えええ、このパターンは?いや、大丈夫。大丈夫だと思う。大丈夫なはず。大丈夫だよね?僕の中で問いが舞う。
そして、・・・・・一時間後。松ちゃんは帰ってこなかった。
二時間後、やはり松ちゃんは帰ってこない。もしやと思い、部屋を見に行く。いない。嫌な場面がよみがえる。なんだか、ゾクゾクしてきたぞ。
三時間後。まだ、帰ってこない。心配になる。松ちゃんに限って事故とか考えられないが・・・。もしものこともある。あの時のように救急病院をしらみつぶしに当たってみるか。いや、松ちゃんの場合は、それよりも「飲み屋」だろうなあ。さあ、どうする。時間だけが過ぎていった。
つづく
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