トマトが二日酔予防になる。リコピンが効くらしい。やってみると「なるほど」いい感じだ。それでトマトジュースを箱買いしている。誇らしげに「どうもそうらしい」と連れ合いに報告。「そもそも呑まなければいいんではないでしょうか」とあしらわれる。確かにそう。だが「そうは問屋が卸さない」のが私、というか人間。そんな現実を生きている。
話は変わるが「大義名分」は「人が守るべき行動のよりどころとなる正当な理由」。しかし、僕は「大義」を持てずに生きている。実際つまらない小さなことで一喜一憂している。立川談志はそんな人間の現実、つまり「業(ごう)の肯定」が落語だと言った。「主君の仇討ち」と「大義名分」に立ちあがった四十七士よりも「逃げた残りの人たちが主題となる」と師匠はいう。「そこには善も悪もありません。良い悪いもいいません。ただ、『あいつは逃げました』『彼らは参加しませんでした』とこういっているのです。つまり、人間てなァ逃げるものなのです。そしてその方が多いのですョ・・・。そしてその人たちにも人生があり、それなりに生きたのですョ、とこういっているのです。こういう人間の業を肯定してしまうところに、落語の物凄さがある」(現代落語論其の2)。ゆえに「落語のなかには、人生のありとあらゆる失敗と恥ずかしさのパターンが入っている。落語を識っていると、逆境になった時に救われる。すくなくとも、そのことを思いつめて死を選ぶことにはなるまい」。師匠はそんな人の現実を「小義名分」と表現した。
牧師はどうも「大義名分」が多い。神の義、恩寵、贖罪、そして罪の裁き。それを踏まえて生きることが重要なことはわかる。しかし「そうは問屋が卸さない」。そこには人間の「業」というか「原罪」がある。聖書は「あるべき正しさ」を語りつつ、「人間てなァ逃げるものなのです」とも語る。弟子のペテロはその代表。だが、そんな衆生、罪人がキリスト教の土台を作った。となると牧師の私は安心して「とは言え『愛せ』と言われると少々腰が引けまして」と語れることになる。そしてそんな罪人を神が「しょうがないね」と赦す(自分のいのちと引き換えにだが)。「肯定」とか「贖罪」は、そんな人間の現実が前提となっている。
先日講演で奈良に行った。食事をしようとファミレスに入った。「プラチナパスポート」の受付をしているという。「60歳以上は5%オフ」。店員さんが「発行しましょうか」と聞いてきたので「いえ、僕は六十歳ではないですから」と小嘘をつく。とっさのことだった。食事が終わり会計をする。今度は5%がおしい。「すいません。カードください」という。店員さんは「プラチナパスポートですね」と笑っている。あああ、なんてしょうもない人間なのか、僕は。小者も小者。自分でも恥ずかしい。僕はそんな「小義」で今日も生きている。でも「それでもいい。いや、そんなもんだ」と言ってくれる存在があれば僕は生きていける。
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