社会

9/18巻頭言「『わからない』と言える―不可解への耐性」その①

(丸善出版に頼まれて「學鐙」2022年秋号に原稿を書いた。)

 一、はじめに   私たちは、子どもの頃から「正解」を求められてきた。テストの度に「ただ一つの正解」を書こうともがいた。「正解」は必ず存在する。だから「わからない」とは言い難かった。大人になって社会というグラデーションの海に出た。その途端「正解」が波間を漂うようになり、分かり易い「正解」は消え、いくつもの「正解みたいなもの」が現れた。「不可解な現実」を前に不安になった。

「特定の苦難が実際に経験されるということは、何かを曖昧にしてごまかすよりもずっと大切だと僕には思われる。ただ、その苦難のある種の間違った解釈には、僕は断固として反対だ。そのわけは、それらが慰めようとしていながら全く見当違いの慰めになっているからだ。だから僕は苦難を解釈しないままにしておく。そして、それこそ責任的に事を始めるゆえんだと信じる」。ドイツの神学者であり牧師であったⅮ・ボンフェッファーの「獄中書簡」(1944年2月1日)の一節である。彼は、ナチズムとの闘いの中にあってヒトラー暗殺計画に加わり逮捕される。明日をも知れぬ日々の中で苦難の意味を「解釈すること」を拒否する。意味や「正解」を求めるよりも、解せない苦難の中に身を置く方が、つまり「わからないまま」が「責任的」だと考えた。

野宿の親父さんに「大変でしたね。わかります」と声をかける。九割以上の人が「話を聴いてくれた」と喜ぶ。しかし、「お前に俺の何が分かるか」と怒鳴られる人もいる。頭に来て「あんたに家族持ちの気持ちがわかるか」と反論する。「わからんわ」と親父さん。お互いわからない。いや、簡単にわかられては困るのだ。そこには「共感不可能」、つまり「わからない」という共通項がある。だから「共感不可能性を共感する」しかない。「わからない」を互いに確かめつながる。支援現場においてそれはすごく大切だった。

二、「断らない支援」は可能か   「正解」が必ず存在するという認識、あるいは「幻想」は、困窮者の支援現場にもさまざまな影響を及ぼしている。なぜなら「問題を解決すること(正解を見つけること)が支援の本質である」と多くの支援員が考えているからだ。この間、厚生労働省で社会保障審議会の部会が開催されている。来年改正される「生活困窮者自立支援法」と「生活保護法」を議論する会議で、私も参加している。2015年に施行された「生活困窮者自立支援制度」は、すべての基礎自治体に「相談窓口」を置いた。前回の改正は五年前。その時の部会で「相談支援」の在り方についての議論をした。私を含む数名の委員が「相談において重要なのは断らないこと」だと意見を述べた。報告書にもそのことは明記された。「自立相談支援事業のあり方としては、相談者を『断らず』、広く受け止めることが必要(中略)『断らない』相談支援については、今後とも徹底していかなければならない。」(社会保障審議会生活困窮者自立支援及び生活保護部会報告書 平成29年12月15日)。

つづく

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