今回の語り場BARは、「富について考える」をテーマに税理士の山内英樹さんをお招きした。税の専門家の立場から、社会の在り方、特に社会保障について含蓄のあるお話しをしていただいた。その際、私も富について考えたことを以下に整理する。
第一に「幸せ」ということ。イエスは「貧しい人たちは、さいわいだ。神の国はあなたがたのものである」(ルカ6章)と言う。なぜ、「貧しい」ことが幸いなのか。今日の社会において貧困は深刻な事態となっている。かつて「ワーキングプア」が問題となった。それは、年収200万円以下の労働者を指した。現在は「アンダークラス」が問題になっている。これは、年収187万円以下の人で男性の66%が未婚といわれている。930万人がすでにアンダークラスであり、2025年には1千万人に達する。これらの現実は当然「幸い」ではない。国は、早急にこれを改善する政策を打つべきだし、国全体で考えるべき事態となっている。
がしかし、そうはならない。「自己責任論」が私達を分断したからだ。この間、「努力が足りない」「なぜ頑張らない」とすべてを個人の責任にしてきた。結果、社会の責任は曖昧になった。「困っている本人が悪い」と他者を助けることを回避した。「迷惑は悪」と断罪し、「助けられる自分」を卑下するようになった。「この情けなさ」から脱するためには、ひとりで頑張るしかない。そうして、私達は孤立していった。
しかし、自己責任が取れているとはどういうことか。それは人として幸せか?聖書が説く「人の本質」はそうではない。「人はひとりでいるのは良くない。助ける人が必要」(創世記)とは天地創造の時の神のことばだ。人である限り、そもそも共存的であり、相互依存的だと聖書は言う。自己責任と並んで「身内の責任」が問題になっている。責任を社会へと向けない点で両者は同質だ。しかし、自己責任論が独りの世界であるのに対して、身内の責任論には最低「家族という他者」が存在する。「ひとりでは生きていけない」を認めている。その点で聖書に近い。だが、近年「家族」が脆弱となった。となると、従来の家族機能をいかにして社会化するか、つまり、赤の他人が「身内のように助け合う」仕組みが必要となった。税制、すなわち富の再分配というには、その一端であるように思う。
「自分ががんばった。だから他人の世話にはならない」は、聖書の「人の本質」に外れた状態。いわば「人でなし」の言い分だ。これでは、人として幸せには成れない。反対に「貧しい」ということは、「幸いにも自己責任が取れない状態」であり、そういう貧しい人は、誰かに助けてもらうしかない故に孤独でもない。助けてもらえたありがたみが解ることで、自分も誰かの助けになろうと思える。「貧しい人は、ひとりでは生きていけない故に、誰かと出会い、共に生きることができる。これが幸せというものだ」とイエスは言いたかったのだ。さらに、宗教的に「貧しい人」は、自分で自分を助けることができない人を言う。神は、そういう貧しい人だから救う。「神の国は貧しい人のもの」とは、そういうことだ。これでいいではないか。
つづく
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