律法学者がイエスを試みようと「何をしたら永遠のいのちが受けられますか」と問う。イエスは、律法にはどう書いてあるかと逆に尋ね、律法学者は、神を愛することとともに、「あなたの隣人を自分自身のように愛せよ」と書かれてあると答えた。そこでイエスは「そのとおり行え」と答えると、彼は自分の正しさを示そうとして、「では、私の隣人とは、だれのことですか」と再び尋ねるのだった。イエスはたとえを用いて説明するが、それが有名な「良きサマリヤ人のたとえ」である。たとえを聴いた律法学者は、隣人とは誰かとの問いに「その人にあわれみをかけてやった人です」と答え、イエスは「あなたも行って同じようにしなさい」と言われた。(ルカ10章20~37節)
現代人にとってサマリヤ人の行為は、「やり過ぎ」「異常」に思え、祭司やレビ人には、道の向こう側を通り過ぎる「正当なる理由」を見る。たとえば、祭司は大事な礼拝があったのかもしれないし、レビ人は律法に厳密であるゆえに、「血に触れる」ことを禁じた聖書に従い、半死半生の人に関われなかったのかも知れない。何よりもユダヤ人とサマリヤ人は犬猿の仲だった。「助けない理由」は、いくらでもあった。リスクを負ってまで他人を助ける必要はないと考える現代人にとって、サマリヤ人は相当「変わり者」に見える。
だが、イエスは「この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか」と問われる。さらに「あなたも同じようにしなさい」と言う。注意しなければならないのは、リスクを考え、自分を守るために「道の向こう側」を通り過ぎていく祭司やレビ人のような生き方が、「果たして本当に自分を守ることになっているのか」という点だ。たとえ話の前提が「何をしたら永遠のいのちが受けられますか」の質問だったことを考えると、「本当の意味で自分を生かすにはどうしたらよいのか」ということがテーマだと言える。マタイ福音書10章でイエスは、「自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします」(39節)と言う。自分のいのちを失っている者が、いのちを得る。危険を回避することこそが自分を守ることだと思い込んでいる現代人には、難解なイエスの言葉が続く。
日頃ユダヤ人から差別されていたサマリヤ人は、重傷のユダヤ人を助ける必然は無かった。見て見ぬふりをし、まさに「道の向こう側」を通り過ぎたとしても、むしろそのほうが当然のように思われる。「関わると大変」。私たちの頭脳は、そのような「計算」に長けている。傷つかないように、傷つけられないように距離を置く。だが、イエスは、そのようなあり方に対して「いのちを失う」と断言するのだ。自分のいのちを守るために無縁を装った私たちに、イエス・キリストはそう言われる。イエスによってもたらされた救いとは何であったのか、今一度考えてみたい。
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