金曜日、炊き出しパトロールに山口のサビエル高校の女子高生5名がボランティアにやってきた。遠方から、しかも深夜に及ぶボランティアに参加するということは、さぞ勇気のいったことだったと思う。学校からは教師が2名が引率。子どもを夜の現場に送り出した家族や学校の決断に敬意を表したい。百聞は一見に如かず。子どもたちは、何を感じ、何を考えただろうか。
途中、子どもたちからいろいろと質問(インタビュー?)を受けた。「活動を始めたきっかけは何ですか」。この質問、正直よく受ける。大学時代に日本最大の日雇労働者の町「釜ヶ崎」と出会ったことが「きっかけ」なのだが、その頃僕が「出会った」のはそれだけではない。韓国民主化闘争、成田空港闘争(三里塚)に出会い、「らい病患者」の隔離施設と出会い、沖縄基地問題、さらに天皇制、その他種々の問題とその現場に生きる人々と出会った。戦後、経済成長期のサラリーマン家庭で大した悩みもなく育った僕にとって、いずれも「豊かで安全、平等な日本社会」という僕の常識を突き崩すのに十分な現実だった。
では、なぜ「釜ヶ崎」、すなわち日雇労働者やホームレスの課題に特化して関わるようになったのか。質問者は、そこに決定的な出会いやエピソードを期待する。確かに個々の出会いはあった。しかし「これが決定的」というものはない。じゃあ、活動のきっかけは?
高校生たちには「釜ヶ崎に出会ったことがきっかけ」と述べたが、本音は少し違う。「自分でもなんでこんなことになったのか解らない」というのが本当のところ。そうなると「これは神様の仕業」としか言いようがない。そこにどれだけ僕の決断があったのか。本当に選択したのか。あまり自信がない。「自分の人生なのに、なんて無責任な」と言われてしまうかも知れないが、なんとなく気が付けばもう引き返せないところまできていたというのが実感なのだ。それはそれで悪いことでもないと思う。牧師の仕事にせよ、ホームレス支援にせよ、大変なことが多い。悪気はないが、人を傷つけ、傷けられる事もある。そんな時「神様のせいだ!」と考えることにしている。そして文句を祈る。「感謝」では済まない現実がある。「俺が選んだわけじゃない。あなたが(神)がやらしたんじゃないか」などと、不遜なことを祈る。だから質問には、「それは神様に聞いてくれ」と答えるべきなのだ。でも、それじゃ高校生に悪いので、なんだかんだと答えておいた。
彼女らの最後の質問は、「愛ってなんですか」だった。うひょー、そうきたか。しどろもどろで何を言ったか・・・。ただ「愛って何か」と考えることも大事だが、「愛するってどういうことか」も大事だと思う。「愛」を名詞ではなく、「愛する」という動詞で考える。聖書には「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった」(ヨハネ福音書三章)とある。この神が、そして十字架のイエスが愛である。「愛すること」を知るにはイエス・キリストを知ることだ。だから、今度そんな質問をされたら、「それは神様に聞いてくれ」と答えようと思う。
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