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社会

8/12巻頭言「解脱できない私が生きる―オウム事件を考える」

 オウム真理教事件の死刑囚13人の刑が執行された。同一事件とはいえ、これほどの人間が一度に死刑執行されたことはない。私は、死刑制度には反対だ。「人を殺してはいけない」ということを「殺すこと」で示すのは、そもそも矛盾している。国連は、死刑について調査で「死刑が終身刑よりも大きな抑止力を持つことを科学的に裏付ける研究はない。(死刑の)抑止力仮説を積極的に支持する証拠は見つかっていない」と結論づけている。効果もないわけだ。テレビで「平成の事件を平成の内に終わらせる必要」と言っていた。これで「オウム事件は終わった」のか。
服役者、元オウム関係者や後継団体、何よりも被害者にとって事件は終わらない。さらに、私達宗教者にとっても同様だ。私達は、何ももって「オウムと違う」と言えるか。オウムにおいて一番気になったのが「解脱」。彼らは様々な修行をして「解脱」を目指した。「解脱」は、仏教全般の用語でオウムに限ったことではない。「人間を縛っている欲望など、一切煩悩から解放されることであり、自由の主体として生きること」が「解脱」らしい。しかし、当然一筋縄ではいかない。当時「修行するぞ!修行するぞ!」とオウム若者たちが必死に叫んでいた映像をテレビで見た。「解脱したいという強い思い」自体が煩悩(欲)に憑りつかれているように見えた。
「解脱」は、現在の世界や社会の現実からの離別につながる。社会には矛盾や問題が山積している。理不尽と不条理、差別と抑圧が蠢く。そこは「煩悩の場」に他ならない。その中でも捕らわれず「自由な主体として生きていくこと」が「解脱」のはずだが、勢い「煩悩の場である世界」から出家し、山麓のサティアンに籠る。さらに社会自体を滅ぼす方向に向かう。さらに、肉体の限界を持つ自身を否定し、なかなか悟れない自分を責め続ける。「解脱できた人」と「解脱できない人」が分断される。
挑戦する前から言ってはいけないが、私は「解脱できない自信」がある。煩悩に捕らわれている凡夫(ぼんぷ)である私は、阿弥陀仏の本願にすがるしかないが、正直、苦難が多くとも「解脱などしたくない」と思っている。なぜならば、この煩悩まみれの現実が外ならぬ「私」だからだ。これがすっかり無くなってしまうと、周囲の人も、あるいは私自身も「あの奥田知志さんだ」とは気づけない。
一方で「解脱」と同じ構造をキリスト教会に見る。クリスチャンとなることで、他の凡夫と一線が引かれ、「クリスチャンだけが救われる」と教える。救いが「解脱できた人」や「クリスチャン」に限定されている。オウムを終わらせるなら、このキリスト教の基本構造を問題にしなければならない。それには、どれだけ修行しても解脱できない人間に対する「絶対的肯定」、つまりクリスチャンになるか、ならないかに関わりなく「すでに救いは完成している」と宣言できるキリスト教信仰が必要となる。そして、そのように赦された者は、恵みに応えて生きることができるという希望を持つ。キリスト教にとってオウムを終わらせるとはそういうことだと思う。

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