(幻冬舎の「やまゆり園事件」が文庫化されるにあたり、あとがきを依頼された。以下はその原稿)
しかし、多くの人はそうは考えない。今日において「生産性」は、「経済効率性」、あるいは「金儲け」を意味しているからだ。事件の半年後、2016年12月15日、国会でカジノ法案が成立した。反対を押し切ってこの法案が「あの年の暮れ」に成立したのは、今となれば象徴的だった思う。ギャンブル依存症の患者増加など、心配の声が少なくなかったカジノ法案がなぜ成立するのか。当時読売新聞社説はこのような批判を述べていた。
「そもそもカジノは、賭博客の負け分が収益の柱となる。ギャンブルにはまった人や外国人観光客らの“散財”に期待し、他人の不幸や不運を踏み台にするような成長戦略は極めて不健全である」
最もだと思う。だが止まらない。なぜか、金が儲かることが「善」であり、「生産性が高い」と評価されるからだ。反対に、それにつながらない事柄や人は「悪」であり、排除されることになる。カジノ法案、住民反対運動、その先にやまゆり園事件が見え隠れする。
福祉の父と言われた糸賀一雄(1914-1968)は「生産」についてこのように述べている。
「この子らはどんなに重い障害をもっていてもだれととりかえることのできない個性的な自己実現をしているものなのである。人間とうまれて、その人なりの人間となっていくのである。その自己実現こそが創造であり、生産である」(NHK出版「福祉の思想」117頁)
糸賀の指摘に元づけば、「自己実現が出来る社会こそが生産性の高い社会」ということになる。しかし、現状は「生産性」の追求のために「自己」が否定され、人は分断される。
そもそも「生産性の呪縛」は、障害者やホームレスにのみ向けられたものではない。この時代に生きるほとんどすべての人が大なり小なり感じているプレッシャーなのである。その意味で植松の「意味のあるいのちと意味のないいのち」は「時代のことば」であり、植松を含めた私たちは「時代の子」なのである。「意味があるか」、「成果は出ているか」、「生産性が高いか」、「儲かっているか」、「成長しているか」。一連の問いの中で私たちは溺れかけている。にも拘わらず、この事件を「ひとりの異常な青年によるわけのわからない凶行」と見てしまうなら、私たちは事件と無関係を装うことができ、安心して道の向こう側を通り過ぎることが出来る。だが、それで良いか。
そうではなく、あれはこの時代の中で起こった事件であり、犯人の立つ場所は、私たちと地続きの地平であることを認識すべきではないか。そう考えることで植松が行った罪の重さを軽減させようというのでは断じてない。その「呪縛」の中でもがきつつも、糸賀のいう「自己実現」に挑む人たちがいることも事実である。
つづく
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