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社会

8/6巻頭言「家族の事件を考える」

 「家族の事件」が続いている。有名な歌舞伎役者の親子が死を選んだ。生き残った息子は自殺ほう助の罪に問われている。札幌では父、母、娘が逮捕された。娘は子どもの頃から生きづらさを抱えていた。父親は面倒見の良い精神科医で地域の人々を支えてきた。どちらの家族も人との関わりに恵まれていたように見える。
マスコミは、有名人の家庭だったこと、あるいは事件が猟奇的だったことをしきりに報道しているが、私は両事件とも当事者が「家族全員」だったことが気になった。トラブルが起こった時「身内で何とかしよう」とするのは自然なことだ。しかし「家族が閉鎖的空間」となり、他からの助けが入らないまま頑張り続け「抱え込んだ」としたらそれは問題だ。両事件は、今日「家族」が置かれた現実を表出させたと思う。
「家族がまるごと孤立している」。それは珍しいことではない。6月には6歳の男児が殺され草むらのスーツケースから見つかり、母親を含む家族4人が逮捕された。なぜ、そうなるのか。個々人に問題があったと思う一方で社会全体が「自己責任」「他人に迷惑をかけてはいけない」「身内の責任」と言い続けてきたことにも要因があるように思う。社会は当然のようにそれを求めてきたが、結果「助けて」と言えない状態に追いやったのではないか。このままでは「家族の事件」は今後も起こる。
今回の事件のみならず、「引きこもり」、「8050」、「ヤングケアラー」など、「抱え込む家族の現実」がある。いや、正確にいうならば「抱え込むしかない社会の現実」がある。
先の事件は家族だけで抱え込み、孤立する中で事件は起こった。「身内に頼りたい」という意識は自然な感情だと思う。しかし、それは「自己責任論」の延長にある帰結とも言える。「自己責任」だけを強調することで「社会の無責任」が肯定される。「自己責任論」や「身内の責任論」が「助けない理由」となった。「身内に頼る」は家族愛のことではない。「助けて」と言えない社会において「家族」という「幻想」にしがみつかざるを得ない「現実のことば」なのだ。
「有名人だったから相談しにくかった」。「他人を助けてきた立場だったから相談しづらかった」。そうかも知れない。個々の事情を知るすべはないし、被害者もおられる。すべてを社会的要因に帰するわけにもいかない。しかし、これら「家族の事件」を機に、私たちは「日本社会」、「身内の責任」、「家族の在り方」などを今一度考える必要があると思う。

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