8/29巻頭言「あれから三年―松ちゃん、会いたいよ(一部前回重複)その⑲」

伴走型支援は「つながり続けることを目的とした支援」である。従来の自立支援の核となる問題解決型支援とは違い「つながること」に着目したのは、自立が孤立に終わるという現実を数多く見てきたからだ。特に社会的孤立が深刻化している現代社会においては、問題解決と同時に「つながりの創出」が欠かせない。だが、「つながり続ける」ということは同時に「ひとりになれる」ことを担保することでもある。誰かとつながっていることで人はひとりにもなれる。つながりは依存ではない。いや、健全な依存は本来人が持つ主体というものを大切にする関係だと思う。そもそも何かに依存せず生きていける人などいない。聖書・創世記では「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」と語り、もう一人の人が神により創造された。現在の「自立」や「自助」、あるいは「自己責任」「他人に迷惑をかけてはいけない」という社会の空気は、本来の人の在り方からずいぶん逸脱した姿だと言える。そして、「ふさわしい助け手」を得た時、人は「ひとりになれる」。あの日、松ちゃんは「ひとり」になれたのだと思う。そして、そのひとりは、路上の頃の「ひとりぼっち」という「非選択的ひとり」ではなく、「選択的ひとり」だったと思う。松ちゃんは、「ひとり」で考えていたのだと思う。
三日目。昼ごはんは、僕の特性の「インド風うまかっちゃん」。なんのことはない、市販のうまかっちゃんにカレーパウダーを入れるだけだが、別で野菜をいためてこれにも少々カレー味をつけておくとなんとなく「インド風」な感じがする。それを二人ですすりながら午後はどうするかを話し合う。
と、いうのは様々な手続きのために「在監証明」、つまり、刑務所に入っていたという証明書が必要だったので、それをどうするかということだった。それで松ちゃんにこう提案した。
「今日は、ひとりで書類を取りに行ってください。僕は付いていきません。交通費など、少し多めに渡すから、ちゃんと帰って来てくださいね」。そして、預かっていたお金も含め数千円を渡した。僕の中では、最初のボールが返ってくるかを確かめたいという思いがあった。ボールが返ってきたら僕らは次の段階に行けると考えたのだ。以前の松ちゃんだったら、数千円持った時点で消えていた。本当は、バス代数百円で済む。でも、ここは任せてみることにした。
玄関に向かう松ちゃんを見送る。「ちゃんと帰ってきてね」と言う僕に「大船に乗った気持ちで待っててください」と答える松ちゃん。えええ、このパターンは?いや、大丈夫。大丈夫だと思う。大丈夫なはず。大丈夫だよね? 僕の中で問いが舞う。

つづく

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