生きる

8/20巻頭言「奥田牧師の解決しない相談コーナー その② カチカチの雑巾」

(先日の「東八幡教会・星の下まつり」の際にそんなコーナーを作り、参加者で悩める小羊奥田牧師への回答を考えていただいた。その時のやり取りはともかく、自問自答してみた。)
【相談内容】 私は牧師をしています。牧師は「宣教」(「説教」などともいう)と称して人前でお話をすることが仕事です。日頃はサボっていてもバレないのですが、さすがに日曜日の礼拝を「飛ばす」ことは出来ません。ですから毎週のようにお話しを考えて原稿を書きます。調子のいい日は、自分でも「おれは天才か」と思えるほどスラスラと書けます。
それがどうしたことか、いくら考えても何も出てこない日があります。絞ったままの雑巾を放置するとどうなるか知ってますか。カチカチになって固まってしまいます。あれです、あれ。そうなるといくら絞っても水一滴出ない。
数時間後にはお話しをしなければならないのに絞っても、絞っても出てこない。前夜の丑三つ時に近づくともう尋常ではなくなります。子どもの頃、爺さんの月命日に来られていたお坊さんのことを考えます。「南無阿弥陀仏って良いよな。あれって何回言うんだっけ。いざとなったらあれを40分間唱えるか」などと訳の分からないことを考え始めます。そんなことをしたらそれこそ「お陀仏」です。「もう限界」とあきらめて寝ます。宣教檀に立って話し始める自分がいます。気づけば原稿がない。慌てているとなんとズボンを履いていない。「あああ南無阿弥陀仏!」と叫んだところで目が覚めます。悪夢です。こんな僕は牧師を続けていけるのでしょうか。

【回答】 「お陀仏」になる前によくぞ相談してくれました。「向いていないので牧師は辞められた方が良い」と回答してもあなたが救われないことは解っています。すでに60歳のあなたが転職するのもなかなか難しい。とはいえさしたる資格もなく才能もない。インターネット上には他の教会の牧師の宣教原稿や動画があふれています。ちゃっかり拝借することも出来ますが、あなたのような小心者は「バレたらお陀仏」と考えるでしょうからそれもお勧めしません。ああそれと「南無阿弥陀仏」は止めておいた方が良いと思います。洒落になりませんし浄土仏教に失礼です。
では、どうするか。宣教が始まったら「すいません。今日はこれ!」と乾いた雑巾を高々と頭上に掲げるというのはどうでしょう。まさに釈迦に説法、牧師に説教ですが、キリスト教の本質は「赦し」です。あなたは牧師として「民に赦しを説く」ことが役目だと思っているでしょう。「良き牧者として分かった顔で無知蒙昧な人々を伝道する」のが牧師だと。残念ながらあなたはそういう「立派な牧師さん」にはなれません。ならばこの際「赦しを説く」のではなく「赦されるというのはどういうことかを実演する」ことにしてはどうでしょう。カチカチ雑巾を振りかざす姿を見た信徒さんは、当初驚き怪しみ情けないと思うでしょう。しかし案外ウケるかも。いや「赦しの本質を見た」と感激する人が現れるかも知れません。宣教題は「赦されて生きている私ってどうよ」ってのはどうでしょう。挑戦してみる価値はあります。但しこの手は調子に乗って乱発すると本当にお陀仏になるかも知れませんのでカチカチ雑巾を絞る努力は続けた方が良いと思います。

関連記事

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。