最初にこれまでの経緯を確認する。松ちゃんは神妙な顔つきで聞いていた。その後、何よりも重要な今後どうするかに話は進んだ。まず本人の意向を聴くことにする。「僕らは準備万端整っているわけ。あとは松ちゃん次第。さあ、どうする」とまず僕が迫る。「どうかなあああ。あらためて言われてもなんかなあ」。「いや、俺はさあ、今日は『まあまあ』とは言わんよ。松ちゃん、ちゃんと自分で言うべきだと思うわ」。松井さんは何かを噛みしめているように「はい」と言った。でも松ちゃんはその後、黙ってしまった。何も言わない。いや、言えなかったのだと思う。
当事者の主体が何よりも大切であることは言うまでもない。だから松ちゃんの言い分、考えを最初に聴くことにした。かつてよく見られたように「専門家」と呼ばれる人が当事者の頭越しに支援計画を決めてしまうやり方、つまりパターナリズム(父権主義)が論外であることは言うまでもない。現在、そんなことをする「専門家」はいないし、それをしたら「専門家」でもない。しかし、大切なのは松ちゃんのこの「だんまり」の意味することである。
当事者主体のやり方が発揮されるのは、その人が「つながりの中」にいる時だと思う。つまり、孤立している人は自分が今、どんな状況に置かれているか、あるいは自分自身の現状が解らなくなっていることが多い。それは他者がいないからだ。他者は「自分を映す鏡」だと言われることがあるが、本当にそうだと思う。リーマンショックの後、路上にたたずむ若者が増えた。「大丈夫ですか」と声をかける。すると「大丈夫」と大半の若者は答えていた。プライドがそう言わせている面がある。「俺はホームレスなんかじゃない」と言いたいのだと思う。一方で自分の状態が解らないゆえに「大丈夫」と応えていた若者もいた。僕から見たら全然大丈夫じゃない。そんな若者の隣りに座り込んで話す。しばらくすると彼は自分の現状が解り始めて「なんとかなりませんか」と言い始める。孤立状態にあると人は、自分に対する認知不全を起こしていたり、じゃあ、どんな選択肢があるのか知らないという状態になっていることが多いのだ。この時の松ちゃんの「だんまり」も「つながりが足らない」ことを示していたように感じた。
逮捕後の自立支援住宅委員会では強制退去とするかが検討されたが、結果は「実家になる」という決断をした。それは「自立支援住宅での生活を継続してもらう」という選択であった。しかし、私たちには不安があった。今回の出来事は松ちゃんの中で大きな意味を持つことは間違いない。何よりも逮捕後にチーム松井の面々が面会に通い詰めたことは松ちゃんにとって自分を振り返る機会となったと思う。だからこそ、ここで自立支援住宅、つまり元の状態に戻ることはどうなんだろうという思いがした。この機会に松ちゃんとのつながりを深めることは出来ないかと思い、しばらくわが家で一緒に暮すことを提案した。お目付け役(奥田夫婦)と一緒の暮らしは、松ちゃんにとって窮屈なものとなるだろう。松ちゃんが「それは堪忍」と言っても不思議ではない。しかし、松ちゃんは笑顔で「わかった」と了解した。「今回の事件で松ちゃんに対して信頼は大きく揺らぎました。ある意味、私たちは松ちゃんに裏切られたんだと思う。今度は、投げられたボールを信頼という形で返してください」という言葉に松ちゃんは「はい」と真顔で応えた。チーム松井の緊急会議は無事?終了した。
つづく
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