社会

7/7巻頭言「『なんちゃって家族』―大きな家族が必要な理由」

昨日、NPO抱樸の互助会のバス旅行に参加した。今年は45人が参加。天候にも恵まれた。参加者の多くは苦労の末に抱樸にたどり着いた人々。一番つらかった時期にお互い出会った。だからこそ笑顔で過ごす一日は「奇跡」とも思え、「ありがたい」が思わず口から出る。
現在抱樸の互助会は会員数280名。その内ホームレスからの自立者が150名。互助会の名前の通り「助ける側」と「助けられる側」を無くしたチームになっている。会費は月500円。今回のバス旅行をはじめ、春はお花見、秋は運動会、毎週のカラオケ、卓球、さらに水曜の「なごみカフェ」など楽しいことも盛りだくさん。「声掛けボランティア」や「お見舞いボランティア」、引っ越しの手伝い、世話人による日常的な見守り活動、年賀状や暑中見舞いの発送など働きは多岐にわたる。
そして何よりも大切なのが「互助会葬」と「偲ぶ会(法事)」。葬儀は通常家族が行う。しかし、私達が出会った多くの方々が家族がいないか、あるいは家族はいるが疎遠になっていた。だから、葬儀に家族が来ないことがほとんどだ。互助会では、赤の他人が葬儀を行い、偲ぶ会(法事)を行う。それは、互助会が「家族であること」を明確に示している。
「家族」とは何か。それは「面倒を掛け合う関係」を指す。子どもの頃は親に面倒をみてもらい、年老いると子どもに面倒をみてもらう。どこまで行っても「面倒な人々の集合体」、それが「家族」だ。しかし、これまでの家族は「閉じた家族」だった。メンバーは限定され、「血縁」によって結ばれていた。しかし、その絆は絶対ではなかった。そのような「閉じた家族」ゆえに、すべての責任が限られたメンバーにのしかかり、遂には憎しみ合い、絶縁に至る。また、「閉じた家族」は、「他人に迷惑をかけること」、あるいは「身内の恥を外にさらすこと」を恐れた。先日の「他人に迷惑をかけてはいけない」と息子を刺殺した父親の事件は、「閉じた家族」の「しんどさ」を象徴した。あれは自己責任論社会が生んだ惨劇だと言える。「父親の責任」が強調されたが、身内に責任を押し付ける「社会の責任」は不問のままだ。
抱樸は「新しい家族」を目指している。それは「開かれた家族」。少数精鋭の「閉じた家族」ではなく「数で勝負のなんちゃって家族」だ。それで十分だ。どのみち「迷惑」「面倒」をかけ合うのが家族であるのなら、それを「特定の数人」に押し付けるのではなく、できるだけ大勢で分担するのだ。その日、元気のある人は「少し多めに」担えば良いし、元気がない人は「担っているふり」をすれば良い。この点で抱樸の家族は多い方が良い。苦労は頭数でごまかそう!「なんちゃって家族」の最大の特徴は「質より量」であることだ。
ちなみに教会は「神の家族」と言ってきた。それはクリスチャンだけに限定されたことばではない。全人類が「神の家族」なのだ。全人類!おお、頭数は十分ではないか!あの惨劇を繰り返さないために、あなたも「なんちゃって家族」にならないかあ!

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