7/15巻頭言「コップに水はあるか」

 「パパとママにいわれなくてもしっかりとじふんからもっともっときょうよりかあしたはできるようにするから もうおねがい ゆるしてくださいおねがいします ほんとうにおなじことはしません ゆるして きのうぜんぜんできなかったこと これまでまいにちやっていたことをなおす これまでどんだけあほみたいにあそんだか あそぶってあほみたいだから もうぜったいやらないからね ぜったいやくそくします」。
 5歳の少女は、朝4時に起き、字の勉強を強いられた。これは、その大学ノートに残された「反省文」である。彼女は、香川県で二度児童相談所に保護されていたが、東京に転居後は児童相談所が介入できないままだった。父親と女児の間には血が繋がっていなかった。部屋は照明がなく暖房はなかった。「モデル体型になる」と称して食事も与えられない。父親の暴行により、2月以後寝たきり状態になり、この子は、今年3月虐待の末、亡くなった。6月両親は逮捕された。
 気分が悪くなるほど痛ましい事件である。到底人間のすることではない。彼女は、どんな思いで最後の時を過ごしたか。それを考えると本当にやるせない。
 しかし、この事件を「鬼の仕業」と片付けてはならないと思う。私達は、見るに堪えないこと、恐ろしいことが起こると、なるべく自分とは関係のない事柄だと思いたい。あるいは、なるべく見ないようにする。しかし、ここまで悲惨な事件は、稀であるかもしれないが、この事件の根っこは、社会の地層の中でつながっているように思う。
 繰り返すが、この両親のしたことはゆるされる事ではない。しかし、この両親は、どのように育てられてきたのかが気になる。人は、自分がしてもらっていないことを誰かにすることは難しい。つまり、愛された人が人を愛することができる。残念ながら、親からしてもらわず大人になる子どもたちは少なくない。たとえ親がダメでも、他の誰かと出会い、その人にしてもらうことで、他の誰かにすることができるようになる。でも、それにも恵まれない子どもは存在する。
 イエスは、「互に愛し合いなさい」(ヨハネ福音書13章)とおっしゃった。しかし、このことばには前提がある。それは「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも」ということである。イエスは、人が互いに愛し合うためには何が必要であるかをご存知であった。私達が誰かを愛するためには、まず、愛されなければいけないのだ。だから、イエス、すなわち神が「あなたを愛している」とまず宣言されるのだ。
 愛は、コップの中の水のようなもの。コップに何も入っていなければ、誰にも分け与えることはできない。十分に注がれた水(愛)は、いずれあふれ出る。そのあふれ出たものが、他者に、周囲の人へと注がれていく。悲惨な事件であった。二度と起こしてはならない。しかし、コップに水がほとんど入っていない人は、あるいは子どもは、そして親は、案外私達の周りにいるのではないか。だから、この事件を特別なものと考えない方がよい。私達は、イエスがおっしゃったことを伝えなければならない。そして、愛された者として、誰かのコップに水を注がねばならない。それが、あの虐待事件後を生きる教会の使命であると思う。

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