「支援」という世界に長く身を置いきた。その中で考えてきたことは「答え」の不可解性とそれに対する「耐久力」の大事さだったと思う。「そうそう答えがでなくても気にしない」。そんな「いい加減さ」が重要だった。
例えば20年引きこもり状態にある人が支援を受けて就職したとする。これは「支援」の世界では「成功例」であり福祉の教科書に「好事例」として取り上げられる出来事だ。しかし、それは「支援者」が定めた「支援計画」に対する成果指標における評価に過ぎない。落ち着いて考えて見ると、20年も引きこもり状態にあった人が「支援」を受けたからとて毎日出勤して仕事をする日々は「新たな苦難の始まり」でもある。「引きこもり」の要因は自殺の要因と重なっている。ならば、あの日、死んでいてもおかしくなかったその人が部屋に閉じこもることで生き延びたのだ。「引きこもって生き延びた君すごい」と言う事から始まらないといけない。これは自殺した人がどうのこうのと言う事ではない。自殺は「強いられた死」であって本人の選択の余地がほぼ無い事態だからだ。
「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし」と家康は言う。その通りだと思う。僕自身「あああ安心」と思えたことはほぼ無く常に不安の中に生きている。それを無理に「解消」しようとすると自ら新しい苦難を負うことになるし、僕が僕でなくなるような気もする。
「支援」の世界ではその人の「主訴」を絞り込み支援計画を立てる。そこに明記された「目標」を達成することに尽力する。仕事がない人には「就労支援」を実施し「就職」を目指す。それはそれで必要である。しかし、本来その先に「目的」があるはずだ。「目標は目的の手段」に過ぎない。目標(手段)は目的に常に従属しなければならない。「平和(目的)のための戦争(手段)」は成立しない。目標(手段)と目的が矛盾しているからだ。
就職できても人生はつらい。ならば「支援」を就職で終わらせることは出来ない。「遠き道を行く」その人と付き合うこと、あるいは付き合う人を増やすこと。お互いさまで「遠い道」を一緒に行く人が増えること。その方が大事なのだ。目標(就職)を達成できたとしても目的(その人の幸せ)を達成したわけではない。そもそも目的はそうそう達成しない。
「答え」はどこにあるのか。無いのかも知れない。ならば「答えの無い問い」を持ち続けることが大事なのだ。「目標の達成」以上に「答えの不可解性に対する耐性」こそが対人援助職にとって、いや人と人が共に生きる上で何よりも大事なのかも知れない。
イエスは十字架上で「なにゆえ?」と問いを残し死んだ。しかし答え無き人生を生き、死んだ人が復活した。さらに復活したイエスは手に十字架の釘跡を残していた。答えは出ていない。そうだ、それでいいのかも知れない。
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