生きる

7/16巻頭言「『六十にして耳順(したが)ふ』―大丈夫か、俺」

ついに60歳になってしまった。いつか来るとは知りつつも実際に「この日」が来てしまうと少々驚く。「老いの現実」に獏たる不安を感じる。老眼になった、白髪が増え量は減った。朝早く目が覚めてしまう。腰は痛いし、おしっこは近い。数えるときりがない。ああ、いやだ、いやだ。他にも不安はある。「僕は年相応の生き方が出来ているか」。論語(孔子)には「六十にして耳順(したが)ふ」とある。人の言うことがなんでも素直に理解できるようになるのが「六十歳」という事らしい。ああああ大丈夫か、俺。
子どもの頃、いや最近まで「60歳」は「遥か未来」だった。「こんな僕でも60歳になればなんとかなる」と信じ、のんびり構えていた。しかし気づけば六十歳。孔子が言う「成熟した人間」には程遠い。ああああ大丈夫か、俺。
25歳で牧師になった。若さに任せて「なんでもやった」。あまり深く考えない。綿密な計画は立てない。目標もいい加減。ともかくはじめる。ダメだったらその時考える。何よりもあまり熱心に反省しない。周囲の心配の声も聞かぬまま突き進む。落ち着きのない僕を間近で見ていた伴子(妻)は「奥田を外に出さない方がいい。いつも何か新しいことを考えて帰ってきてみんな大変になる」と周囲にもらしていた。
一方で実は気が弱く、ちょっとしたことが気になって眠れない。「この人は勝手に自分は病気だと思い込むから厄介」と言う。強気と弱気が日替わりどころか、時間単位で入れ替わる。ジェットコースターのように落ち着かない。でも「大丈夫60歳になったらさすがの僕も落ち着きますよ。伴子、もう少しの辛抱だ」と言っているうちに60歳。あああ、ダメかも知れない、俺。
「耳順ふ」どころではない。一聴けば10倍返しで喋りまくるし、二聴けば30倍にふくらまし「何かやろう」と動き出す。一方でちょっとした一言で眠れない。伴子の心配は無くならない。ああああ、大丈夫か、俺。
いや、大丈夫だ、俺。子曰く、「われ十五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑(まど)はず。五十にして天命を知る。六十にして耳順(したが)ふ。七十にして心の欲する所に従へども、矩(のり)を踰(こ)えず」。やっぱ孔子はすごい。でも、しらんし。孔子は孔子、俺は俺。天命も分からず、人の話しもちゃんと聴けず、いつまでも右往左往し一喜一憂する。でも仕方ない。それが僕なのだ。
孔子にはなれない、なる気もない。「それでも60歳ですか」と問われたら「はい、60歳となっております。みんなにご迷惑をおかけしながら今日もバタバタと落ち着きなく生きています」と答えるしかない。僕は僕らしく生きるしかないのだ。たぶん70歳になっても変わらない。それが僕だし、人間って大半そんなものだと思う。
僕は僕でしかない。だから、君は君を生きたらいい。そんな風にお互いを認める社会でありたい。自分の正義を振りかざし「あなたはダメだ」というのではなく、違いと限界を認めることから始めたい。その違いこそが豊かさなのだ。
孔子にはなれない僕だけど、大丈夫、俺。だからいう、大丈夫、君。君らしくあればいい。周りが何を言おうと僕はあなたの生き方を尊重する。大丈夫。だから一緒に生きよう。僕は僕として、君は君として生きるんだ。

関連記事

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。