新型コロナへの対応をめぐり「いのちか経済か」という選択が話題になる。この問い自体が間違っている。「いのちが大事」は、言うまでもないが、そもそも経済は人が生きるための仕組みに過ぎない。現在のような経済至上主義や拝金主義の世の中では、そんなきれいごとは通らないが経済の原意はそうなのだ。私が言いたいのは「いのちか経済か」という問いから始めるのではなく、名前のある個人、具体的なひとりの人から始めよう、ということだ。目の前にいるひとりの人から考えることで、支援は必然的に総合化する。なぜならば人はホリスティックな存在(全的存在)で、ひとりの人の中に複合的な問題が混在しているからだ。家族などその人の周囲の関係まで含めるとさらに総合化せざるを得ない。奥田知志さんに必要なものは何かを問うと、いのちも経済も、住宅も見守りも就労も絆も出番も必要になる。そういう問いが、制度の縦割りを乗り越える「居住支援」の問いなのである。人を制度に合わせるのではなく、「その人」に合わせて必要なものを総動員する。厚労省も国交省も、総務省も経産省も法務省も垣根を超えて向き合うしかない。抱樸は、ひとりとの出会いからすべての活動を構築してきたので総合的にならざるを得なかった。「ホームレス支援団体」と思われがちだが、確かに最初はそれからスタートしたが、現在では子ども・家族、居住、障害、高齢者、地域づくりなど27の事業を実施している。すでに「何屋」かわからない状態であるが、そういう在り方が国も求められる。抱樸は、しばしば曖昧で良くも悪くも適当にやってきた。それが「居住支援」に象徴される総合的支援の地平である。
5、社会の脆弱性その② 社会的孤立
もう一つの脆弱性は「社会的孤立」である。コロナ禍は、私達を隔絶させた。「ソーシャルディスタンス」を守らざる得ない状況が今も続いている。「ステイホーム」や「マスク」は、もはや「律法」となり、それを守っていないと「白い目で見られている」ような気持ちになる。そして、私達は、誰とも会わない日々に慣れつつある。
「それでは寂しい」とばかり「ネット」で繋がろうと頑張ってみる。だが「これがつながりか」と少々不安になる。ネット会議、テレワーク、ウーバーイーツ・・・柔軟(従順)性に富んだ国民性ゆえか、すんなりと「スタイル」を変えたようだが、「日常」とはそう簡単なものでもない。当然、そんな流れに置いてけぼりを食らった人も居るはずだ。「インターネットで申請してください」と当然のように言われても言葉の意味さえ分からない。「ついて来れないあなたが悪い」とここでも言われるのか。ほら、その一言は全然新しくない。それはコロナ以前からあった日常であり、私達は自己責任論社会の中で孤立を深めていたのだ。
つづく
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