6/6巻頭言「あれから三年―松ちゃん、会いたいよ その⑧」

診察が始まった。担当は、良く知っている院長先生で松ちゃんは、先生の前、その真後ろに僕が座った。精神科、特に依存症の場合、問診で身体の事のみならず、生育歴や職歴など個人史なども尋ねられることが多い。僕たちも自立支援住宅入所の折、松ちゃんから詳しくこれまでのことを聴いていた。アセスメント内容は、その後、本人の承諾の上で生活保護のケースワーカーとも共有していたので聞き取り内容に間違いがないことは確認されていた。
「ええ松井さんですね。まず、お生まれはどちらですか」。「東京の下町です」。えええ、松ちゃん昭和14年中国の生れでしょうが。お父さんは満州鉄道社員。「どんな、仕事をされてきましたか」。「そうですね海上保安庁が長かったかなああ。日本の安全を守っていました。船はいいですねえ」。ええええ中国の旅順から引き揚げて、働きだしたのは19歳、大阪の鉄工所でしょうが。その後八幡に来てからも鉄工所。どっから「海上保安庁」が出てきたのか。本人にわからないよう「違います」と医者にサインを送る。先生はそんな僕をみながら笑っておられた。でも、本人が言う度にカルテに何やら記録されていた。その後もわけのわからない話しが続き、問診は40分に及んだ。でも入院となった。やれやれ。それにしてもあの先生がどんなカルテを書かれていたのか正直見てみたかった。
部屋に入り、僕らは、もってきた着替えなどを病室のタンスに片付けた。別れ際「松ちゃん、大丈夫やろね」「いや、大丈夫、大丈夫」「二回言うな。なんせ海上保安庁やからな」。「あははは」と松ちゃん。「松ちゃん、日本の安全よりも自分の安全を守ってくださいね」というと松ちゃんは、Vサインを掲げ「大船に乗ったつもりでいてくださいね」と笑顔で返した。これ知ってるぞ。この場面見たことあるぞ。デジャブか。これってやばいやつやと僕はつぶやいていた。
ともかく計画通り入院できたのだ。これで安心(のはず)と自分に言い聞かせ車に乗った。帰り道、夕日がやけにきれいだった。しかし、落ちていく太陽を追い越して僕の気持ちは沈んでいった。教会に戻り、一息ついた時、携帯が鳴った。番号は◎◎病院。『はい、はい、わかってますよ、わかってますよ、覚悟はできていますから、今出ます、ちゃんと出ますから』と心を落ち着かせ電話を取る。「はい奥田でございます」「あのー◎◎病院の病棟担当ですが、松井さがおられません。今、看護師で探していますが、見つかりません。ちょっと来てもらえますか」。別に驚きはしない。そんなことぐらいある。いや、ある面、予測通りと言って良い。なんせ、相手は松ちゃんなのだ。でも腹は立つ。「松ちゃん何してくれてんねん。何が海上保安庁や」と吐き捨て車に乗る。病院は自動車で四〇分ほどかかる。今戻ってきたばかりの道を再び戻る。「松ちゃんめ」とメラメラしながら車を走らせる。
もうすぐ到着という時、再び携帯が鳴った。「おられました。大丈夫です」とのこと。松ちゃんは、病院内にある体育館のような場所で見つかったそうだ。何をしてたのか。本人が電話に出た。「あああ、奥田さんや」。「奥田さんややないやろう」。「松ちゃん何してたん」。「いや、病院を調べてただけや」。「病院の何を」。「安全を」。「もうええわ。早よ、寝ろ」と電話を切った。僕は、今日二往復目の帰路についた。

つづく

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