社会

6/30巻頭言「排除の構造」

 先日NHK福岡が「仕切りのあるベンチを考える」という特集を放送した。福岡市は2016年から「ベンチプロジェクト」として補助金を付け普及に努めているという。福岡市に限らず北九州市、いや全国でこのタイプのベンチは急激に増えた。番組ではこのベンチが特許庁に実用新案として登録されたこと、その目的が「浮浪者などがベッド代わりに使用できず」とされていることが紹介された。
 市の担当者は「ご高齢の方などが立ち座りしやすいように、補助する目的で手すりを設置しています」と答えている。確かに一理ある。手すりが必要である人は少なくない。福岡市は、このベンチを「ユニバーサルデザイン」と称しているが、「ユニバーサル(多様性)」を重んじるのなら全部を「仕切りのあるベンチ」にする必要はない。
 野宿状態の人々が街にあふれ出したと同時期にこのようなベンチが増えていった。ベンチだけではない。公園の東屋の屋根が撤去され、駅の通路は自転車置き場となり、待合室は改札の中に移動した。かつて、これら街中の「軒的空間」には居場所のない人が身を寄せていた。だがそのような場所は次々に無くされた。その目的に「野宿者排除」があったことは明らかだ。2002年にホームレス自立支援法が成立した以降、自立支援と共に「排除ベンチ」が広まったようにも思う。
 「仕切りを無くして野宿者がそこで寝られるようにしろ」と言っているのではない。ただ、野宿者に限らず「仕切りがあることで使い難い人」もいると思う。身体の大きさも違う。障害のために座ることが出来ない人。子どもを脇に寝かせて一休みする母親や父親。正直、仕切りは邪魔だと思う人はいる。一つのいのちを蔑(ないがし)ろにすると他の人にも影響が出る。なぜならば、いのちはつながっているからだ。「ユニバーサル(多様性)」を重んじるのならタイプの違うベンチを増やす方が良い。
 何よりも僕が気になるのは「仕切りのあるベンチ」ばかりの街では野宿状態の人が「見えにくくなっている」ということだ。福岡市の発表では市内ホームレス数は144人(2024年1月)。かつてはそれらの人が「ベンチ」で何とか凌(しの)いでいた。道行く人はその姿に感情が動かされた。「かわいそう」。「なんとかしてあげたい」。「正直嫌だなあ」。様々な感情が沸き上がる。人は見ることで現実と出会い、そして考える。見えなくなる(出会えなくなる)と人は考えなくなり感じなくなる。「思考停止状態」になると現実は何も変わらなくなる。
 福岡市がホーレス自立支援に熱心であることも承知している。繰り返すが「ベンチで寝かせろ」などと言っているわけではない。しかし、「排除の構造」は具体的に「排除ベンチ」を設置することで野宿状態の人を追い出すということだけではなく、見えなくなる私たちが思考や感情を自分自身から排除することにあると思う。
 「配る福祉から支える福祉へ」。ベンチにはそんなシールが貼られていた。だが大切なのは「考える福祉」「感じる福祉」「悩む福祉」だと思う。

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