(西日本新聞でエッセイを書くことになった。50回連載。考えてみたら、これをここに全部載せると一年かかるので飛ばし飛ばしやります。)
僕らは子どもの頃から「正解」を求められてきた。テストでは「正解」は必ず存在した。だから「わからない」とは言い辛かった。「努力すれば見つかる」。それが「正解」の世界だ。
大人になり社会という「グラデーションの海」に出た途端「正解」が波間に漂いだした。「不可解」。それが世界の現実だった。
野宿の親父さんに「大変でしたね」と声をかける。ほとんどの方が「話を聴いてもらえた」と喜ばれる。だが「お前に俺の何がわかるか」と叱られることもある。確かにそうだ。わからない。昔、寅さんが言っていた。「お前と俺とは別な人間なんだぞ。早え話がだ、俺が芋食って、お前の尻からプッと屁が出るか!」。確かに。共生という言葉の根っこには「別の人間」という現実が横たわる。腹立ちまぎれに「あんたに家族持ちの気持ちがわかるか」と反論する。「わからんわ」と親父さん。「すいません。言い過ぎました」と僕。
簡単にわかられては困る。お互いが「共感不可能」の中にいる。それを認めることが「共生」のはじまりだと思う。いわば「共感不可能性の共感」である。いま世界は「わかりやすさ」を軽薄に求めている。「敵か味方か」。「白人か有色人種か」。性的マイノリティ―を侮蔑し、他の民族や文化をヘイトする。しかし「一つの正解」などない。僕が芋を食べてもあなたのお尻からオナラは出ない。異質な者同士が共存することが相互豊饒の契機となる。「別の人間」。それが人の「尊厳」、すなわち尊く厳しい現実だ。このわかり難さ正解の無さへの耐性が問われている。
さて今回で最終回となった。お付き合い心から感謝する。希望のまちは別の人間のまち。別であることを喜べる場所。わかり難いが面白い。各々自分にしか出せないオナラをかまし合う。「臭いなあ」と笑い合う。そんなまち。2025年春。今度は紙上ではなく希望のまちでお会いできたらと願う。それまでさようなら。あああ、最後に希望のまちの応援よろしく。では。
この記事へのコメントはありません。