天皇一色だった。テレビの天皇特集を見ていると「この方は誠実ないい人だ」と思えた。「慰霊の旅」と呼ばれた戦跡めぐり、「らい」療養所や障がい者施設への訪問、そして被災地訪問。「らい」予防法が撤廃されるはるか前から彼らは「らい」患者を訪ねていた。
それだけではない。2013年4月28日、安倍首相は「主権回復・国際社会復帰を記念する式典」を開催した。1952年にサンフランシスコ講和条約により米国から独立した日を記念するこの式に天皇は参加したくないとの意向を示したという。「その当時、沖縄の主権はまだ回復されていません」が理由だった。皇太子時代も含め平成天皇は沖縄を11回訪問している。昨年の誕生日会見では、「沖縄の人々が耐え続けた犠牲」と語り、辺野古の事態を含意した発言だと注目された。1975年に沖縄初訪問時、ひめゆりの塔で火炎瓶を投げつけられた。訪沖前に「何が起こるかわからない」との心配の声が上がったが「何が起きても受けます」と述べたと朝日新聞は報じている。そして事件は起こった。しかし、皇太子は旅程を変えることなく、翌日名護市のハンセン病療養所を訪問した。それが事実なら「すごい人だなあ」と思う。
だが事は、そう単純ではない。「平成」天皇が象徴したものは「人のあるべき姿」だったと思う。天皇に「優しさ」や「いたわり」を多くの人が見出し感動した。でも、何かおかしい。それが「人のあるべき姿」なら、なぜ主権者たる国民自身がやらないのか。南洋の戦跡を訪ねたことのない人が、慰霊する天皇の姿になぜ感動できるのか。「らい」患者の話を聞いたことのない人が、天皇が患者の手をさする姿になぜ感動できるのか。被災地でひざまづき被災者を励ます天皇になぜ感動できるのか。それは幻想ではないか。
天皇のしていることが素晴らしいと思うのなら自分でやればいい。天皇に依存している場合ではない。私達が主権者であり主体なのだから、天皇を介さず、直接会い、自分で感じ、自分で判断したら良い。それらのことを天皇を通してしか感じられないのなら、私達は呪縛されている。天皇制と主権在民、すなわち憲法一章とそれ以後の矛盾はこのあたりにある。平成天皇は、繰り返し「象徴である意味」を問うたと語っている。私達は主権者であることを問うただろうか。4日の朝日新聞は、「天皇から国民へと主権が移った日本国憲法では、天皇制は改正の手続きを踏めば廃止すらできる。しかし、(中略)主権者の意思で象徴天皇制のあり方を決められることが忘れ去られてはいないだろうか」と指摘している。
天皇制は空っぽの器だ。時々に天皇制は中身である「象徴すべきテーマ」を変更してきた。現在のテーマは「優しさ」というところか。いつそれが「戦争」に代わるかもしれない。たとえ「令和」天皇が平和主義者であり続けても、私達は天皇に依存することなく自分で判断したいと思う。「偽善者よ、あなたがたは天地の模様を見分けることを知りながら、どうして今の時代を見分けることができないのか。また、あなたがたは、なぜ正しいことを自分で判断しないのか。」(ルカ福音書12章)これはイエスの言葉。
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