社会

5/28巻頭言「究極の病―自分病」西日本新聞エッセイ その㉒

(西日本新聞でエッセイを書くことになった。50回連載。考えてみたら、これをここに全部載せると一年かかるので飛ばし飛ばしやります。)
コロナ禍となり3年が過ぎた。第八波はようやく収まってきたが今後は誰にも分らない。世界がパンデミックとなり皆が恐怖を感じた。一方で僕は「これはチャンスかも知れない」と考えていた。
コロナ直前の世界は「自分病」に感染していたと思う。アメリカには「自国第一主義」を掲げる大統領が現れ次々に国際条約から脱退した。EUは英国の離脱に揺れていた。「協調」を目指していた国際社会は「エゴ」の風にさらされて既に肺炎状態だった。そこに「新型肺炎」がやってきた。
この病いは国境を越え、民族も宗教もLGBTQも関係なく「平等」に感染していった。そして「全員が当事者」となった。「一国のみが助かる」ことはあり得ない。コロナは半ば強制的に「協調」へと僕らを戻そうとしたのだ。「チャンス」とはこのこと。
ただ現実はそう簡単ではなかった。初年の三月頃からトイレットペーパーの争奪戦が始まった。マスク不足から紙不足になるというデマが流れたのだ。トイットペーパーは国産で十分な在庫があったが、多くの人が「自分のおしり」の事だけ考えていたのだ。
「医療関係者に感謝」という事が繰り返し語られた。僕らがステイホームをしている間も感染リスクのある医療現場で治療に当たってくれたのだ。仕事とは言え「感謝」は当然。しかし、一方で医療関係者の子どもが地域で排除されるという事態も生じた。「感謝して排除する」。矛盾しているように見えるが「自分病」という観点からすると一貫している。「自分が感染したら逃げずに治療してね。でも感染するリスクがあるからあなたも家族も近寄らないでね」。残念ながら「自分だけ」という思いがそこにはあったと思う。
昨年の2月24日。「自分だけ」の先に「究極の自分だけの事態」が起こった。戦争だ。トイレットペーパーを確保して自分の安心だけを考えた日、僕らは既に戦争へと向かっていたのだ。世界は「協調」を取り戻すことが出来るだろうか。

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