(「保育情報」という雑誌の依頼でエッセイを書いた。希望のまちについてである。希望のまちは、土地の取得も完了し、いよいよ建築に向けて動きはじめた。6月には手塚さん、山崎さんを迎えてのイベントも予定されている。建築費用の高騰、戦争の影響、そして、円安。なぜ、こうも困難に見まわれるのか。だが、本当に必要なものは必ず与えられる。そう確信している。)
「助けて」。そんな当たり前のことが言いづらい日々。「なぜ、もっとがんばらないの」。「他人に迷惑をかけてはいけない」。「甘えるな」。そんなことばが「助けて」をかき消していく。
「自立」は大切。しかし、「自立」は「孤軍奮闘」ではない。ましてや「孤立」でもない。本当の自立とは「助けてと言える」こと。人は、あらゆる動物の中で最も未熟な状態で生まれてくるという。立つことも、見ることも、食べることさえままならない、そんな状態で人は生まれる。しかし、「弱い存在」だからこそ、人と人とはつながり生きるしかない。それは「甘えている」のではない。最も人らしい姿なのだ。
サルが「進化」して人となった。サルの母親は独りで出産できる。人は骨格の形や脳の肥大によって、超難産となり助けがないと産めなくなった。ゆえに人は家族や社会を必要とした。サルができたことを人は出来なくなった。通常「進化」は「出来ないことが出来るようになる」ことだが、人の場合は真逆。ならば「ひとりでやれ」「他人に迷惑をかけるな」は、「退化」、すなわち「サル化」を意味する。私たちは人でありたいと思う。
2024年秋。北九州に「希望のまち」が誕生する。サル化し、「助けて」と言いづらい現代社会に「人が人として生きるまち」が誕生する。「わたしがいる、あなたがいる、なんとかなる」。これが「希望のまち」のキャッチ。「こんにちは」「さようなら」と同じぐらい自然に「助けて」が言える。特別な日に言うのではない。最後の最後まで取っておくのでもない。「助けて」を日常にする。つらい時、「助けて」と言え、誰かが聴いてくれたなら自分は大事にされていると「自尊感情」を持てる。しかし、それだけではだめで、誰かに「助けて」と言われる。それも「希望のまち」である。その日、人は「自分は必要とされている」と、自己有用感を持てる。自尊感情と自己有用感。「助けて」は、人が人として生きる上で大切なものを与えてくれる。
「希望のまち」は実験である。「困ったら北九州においでなさい」ではない。このモデルが成功することで各地に「希望のまち」ができることを期待している。「ひとりにしない」「助けてと言える」「なんとかなる」。そんな「希望のまち」が各地にできることを夢見ている。
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