裁判が行われたのは、2008年12月25日クリスマスであった。午前9時40分開廷。傍聴席には「チーム松井」が駆けつけた。検察官から事件の説明と証拠の確認、松ちゃんに対する尋問が行われた。弁護士は事実について争うことはせず、主に今後の「更生」に関することを尋問されていた。その中で松井さんの身元引受人として私が情状証人として証言することとなった。今後も責任を持って松井さんをと関わること、必要な支援を行うことを申し述べた。
その後、裁判長から質問があった。「奥田さん。率直に言って、この方の問題は何だと思われますか」。「お酒だと思います。普段はとても穏やかで理性的な方です」。すると裁判長は「では、本人が『お酒を飲まない』という条件でお引き受けいただけるということよろしいですね」と念を押された。私は、松ちゃんの顔を見て「いいえ、そうではありません」と答えた。「引き受けないということですか」と裁判長は少々戸惑われたようだった。「いいえ、私が申し上げたのは『松井さんのことは引き受けます。だから松ちゃん、もう飲まないでね』ということです」。裁判長は一瞬沈黙され、速記の方に「今の言葉を記録してください」と指示された。
このやり取りは抱樸とは何か、伴走型支援とは何かを示していたように思う。「酒を飲まないという条件をクリアしたら引き受ける」は一見正しいように思える。それが今の世の中の常識だと言えるからだ。例えばこの国の社会保障は「申請主義」が原則となっている。生活保護にしても本人が申請しない受給できない。しかし、それでは「遅い」、あるいは「はじまらない」。あるいは「あなたが申請しないのが問題です」で片づけられてしまう。自己責任論である。だが、本当に困っている人ほど助けてと言えない。松ちゃんもそうだった。当時の松ちゃんは、自分で自分が良く解らない状態にいたと思う。
「飲まないのなら引き受けます」と「引き受けます。だから飲まないでね」はぜんぜん違う。まずはそのまま引き受ける。順番が大切なのだ。抱樸は不完全ながらもそれを目指してきた。生まれた時のことを考えると良い。「抱樸由来」という文章には次のような言葉が出て来る。「みんな抱(いだ)かれていた。眠っているに過ぎなかった。泣いていただけだった。これといった特技もなく力もなかった。重みのままに身を委ね、ただ抱かれていた。それでよかった。人は、そうしてはじまったのだ。ここは再びはじまる場所。傷つき、疲れた人々が今一度抱かれる場所・抱樸」。そう、抱かれて始まったのだ。
つづく
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