東八幡教会は毎年子どもたちと平和の旅に出かける。長崎、広島、そして沖縄というサイクルでまわりすでに25年ほど続いている。コロナもあり今年は5年ぶりの広島平和の旅だった。
今回語り部として立ってくださったのは切明千枝子(きりあけちえこ)さん。15歳で被爆され94歳になられる。最初は座っておられたがすぐに立ち上がり一時間以上立ったまま子どもたちに語りかけてくださった。「本気で平和を創ってください」。最後に繰り返された言葉が心に刺さった。
これまで多くの語り部のお話しを聞いてきた。原爆の恐ろしさ、その日何が起こったのか。どの証言にも胸が痛んだ。切明さんは最初にこんなお話しを下さった。「広島は太田川が運ぶ土砂が海に堆積してできたデルタ地帯です。だから井戸を掘っても塩水が出る。だから農業に適しません。そういうこともあって広島は軍都としての道を歩みました。広島は被爆地でもありますが多くの兵隊を送り出すことで侵略戦争を支えた町でもあります」。直前、私たちは新しくなった資料館を見ていた。原爆の恐ろしさはもちろんのこと被爆された個人の証言や記録は深く考えさせられた。一方で正直「どうかな」と思っていたこともあった。それもあり切明さんの話しに引き込まれた。
切明さんは何度も「大変惨(むご)いことでございました」と仰った。それは切明さんご自身がされた被爆体験、例えば被爆し全身に火傷を負った下級生に何もしてあげられず、せめてもと家庭科室にあった真っ黒になった古い食用油を塗ったこと、亡くなった下級生を校庭で焼いたこと、骨を拾ってあげることもできず小指と喉仏だけを拾い紙に包んだこと。切明さんは「大変惨いことでございました」と声を詰まらせておられた。
「大変惨い」。この言葉を聞きながら私は切明さんに「大変惨いこと」をお願いしていることに気付いた。彼女が語る一つ一つは事実である。事実であるからこそ、それを思い出し、その事実のかけらも体験したことのない私のような人にそれを話す。それは「ものすごく辛いこと」に他ならない。5年前の広島の旅の時、「戦後、しばらくの間私は8月6日を姉と二人で映画館で過ごしました。式典に全国から大勢の人が広島に来られましたが、どうして参加することは出来ませんでした。あの日を思い出すこと自体が辛いことだったからです」。その時の語り部さんの言葉を思い出す。
しかし、その方も切明さんも、その「辛いこと」を承知で語ってくださっている。それは「惨いこと」をお願いしていることでもあるのだ。「惨い経験を語る」には「惨さ」に留まらざるを得ない。忘れて気楽になることはできない。そんな「惨さ」を引き受けてくれる人から聴く。この事実の重さを聴く者は忘れてはなるまい。「本気で平和を救ってください」。呻(うめ)きにも似た言葉の重さはそこから来ている。
私は今回もこの「惨さ」をどれだけ自分のものにできただろうかと自問しつつ帰路についた。
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