社会

4/17巻頭言「ある・ないか、持つ・持たないか」

 「障害をお持ちの方」。しばしば耳にする表現だ。しかし、この云い方には問題がある。なぜなら、障害は「持つ、持たない」ではなく、「ある、ない」という事柄だからだ。
実は私も「奥田さん、障害は『持っている』ではなく『ある』ですよ」と教えていただき自分の問題に気づかされた一人だ。障害は個人が選び取れる事柄ではない。ほとんどの場合、生来の現実であり「すでにある」事柄だ。事故や病気で障害者になる人もおられるが、それも自分から「持とうと思って持った」のではない。障害は、本人の意思で「持つ」こともできなければ、本人の意思で「捨てる(持たない)」ということもできない。それは、その人の一部であって、その人そのものであり、個性なのだ。例えば「私は顔の真ん中に鼻を持っている」とは言わない。「顔の真ん中に鼻がある」と言う。それと同じ。だから「障害をお持ちの方」という表現は成立しない。
 それと「持っている」という表現の背後には「持たないこともできる」という認識がある。訓練や治療次第で障害を克服できるという考えである。これを「医療モデル」と呼ぶ。この場合、障害は「治療」や「訓練」の対象となる。本人の意思でリハビリなどを行うことは悪いことではないし、リハビリで出来ることが広がるのも事実だ。しかし「医療モデル」は、障害当事者に無理な期待を負わせてきた。一部の親たちは「自分が死んだらこの子はどうなるのか」との不安から、障害のある子どもたちに過酷な訓練を強いた。しかし、それで「障害が無くなる」ということはほぼ無かった。
 「医療モデル」も大切だが「社会モデル」はさらに重要である。つまり、障害は当事者個人の問題ではなく社会の問題と捉えるのだ。例えば駅にエレベーターもエスカレーターもなく、誰も声をかけてくれる人もいないとなれば、足に障害がある人はその駅を使えない。社会の在り方や現実にこそ「障害」、すなわち「生きづらくさせる要因」があると捉えその社会を変革することによって障害に対応しようとする。これが「社会モデル」である。
障害当事者が「障害を持たされている」と語ることがある。それは合理的配慮を欠いた社会に「障害を負わされている」という訴えである。この場合の「持つ」は成立する。先に紹介した「自分が死んだら」と残る子どもを心配する親は、この社会が障害者を差別し、就職もままならず、社会保障も不十分である故に心配しているのだ。そうではない社会が実現したら親が無茶な訓練を息子に強いる必要はなくなる。
 「そんな言葉尻を捕らえるな」と言う人もいると思うが、案外、無自覚に使っている言葉は、社会の歪んだ現実にどっぷりと浸かった自分の現実から必然的に出てくる言葉に過ぎない。
 「口から出るものが人を汚す」(マタイ福音書15章)とイエスは語られた。「持つ」か「ある」か。この短い一言が私たちの在り方を問う。出会いの中で私たちは学ぶのだ。

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