社会

4/16巻頭言「何人住んでいますか」西日本新聞エッセイ その⑯

(西日本新聞でエッセイと書くことになった。回連載。考えてみたら、これをここに全部載せると一年かかるので飛ばし飛ばしやります。)
ある講演会でのこと。こんな質問を受けた。「会社の帰りにホームレスの人を見かけるのですが、どうしても声をかけることが出来ません。どうしたらいいでしょうか」。声をかけてあげたら喜ばれますよと答えたが彼女は「いや、どうしてもできません」と仰る。「なぜ、声をかけられないのですか」と尋ねると彼女は真顔でこういった。「もし、声をかけたら家までついて来るんじゃないかと心配で」。いやいや、そんな人はいませんよ。「大丈夫ですか」「連れて帰って」。そんなことはないと答えようとしたが、いや待て、彼女のいうことは事実かも知れないとも考えた。
人と人が出会うとはどういうことか。それは「その人が僕の中に住み始める」ということ。現実的には「ついて来ること」はないが「連れて帰る」ことはある。雨が降ると「あのおじさん大丈夫かな」と考え、食事をすると「おじさん食べてるかな」と心配になる。それが出会うということだ。
灰谷健次郎の小説「太陽の子」にこんなセリフがある。「いい人ほど、勝手な人間になれないから、つらくて苦しいのや。人間が動物と違うところは、他人の痛みを自分の痛みのように感じてしまうところなんや。ひょっとすれば、いい人というのは、自分の他にどれだけ自分以外の人間が住んでいるかということで、決まるのやないやろか?」。いい人になる必要はない。しかし出会うとその人が自分の中に住み始めてしまう。他人の分まで悩む。だからなるべく出会わないように努力する。そのための理由として「自己責任」と言ってきた。
だがそれでは動物と変わらない。「他人の痛みを自分の痛み」とできるのが人間なのだ。だから彼女の心配はまさに事実だ。現実的には連れ帰ることはないが、僕の中にその人が住み始め一緒に帰宅することはある。それが人であり人と人の営みだ。僕の中に他人が何人住んでいるか。僕が希望のまちとなり住民をどれだけ住まわせることができるか。それを考えたい。

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