社会

4/10巻頭言「セキュリティーとセーフティー」

4月4日東京下北沢で「希望のまち」キックオフイベントが開催された。多くの人が駆けつけてくださり、温かく、ありがたい会となった。ゲストでご登壇くださったのは、哲学研究者の永井玲衣さんとコピーライターの牧野圭太さん。示唆に富むお話しが聞けた。
その中で永井さんが「セキュリティーとセーフティーは違う」というお話しをされた。永井さんの話しを正確に知りたい方は、YouTube抱樸チャンネルをご覧いただきたい。以下は、僕なりの解釈。
セキュリティーは、「安全であること」であり、それは「危険がないこと」を意味している。現在の社会は、あらゆる面で「セキュリティー」が重視されている。地域、建物、パソコン・・・「セキュリティー」確保が常識となっている。それ自体は「不必要」ではない。しかし、「セキュリティー」を追い求めるほど「危険が増す」ということも起こり得る。例えば人と人との関係において究極的に「セキュリティー」を追い求めると「誰とも会わない」ということになる。人間関係における「危険」は、他者との関係において生じるからだ。人は、他者から遠ざかることによって「危険」を回避して「安全」を確保できたと思う。しかし、同時に「孤立」という「危険」を背負うことになる。
永井さんは、僕が「絆は傷を含む」と言ってきたことに触れつつ「大切なのはセーフティーなんじゃないか」と言われた。絆(きずな)という言葉には傷(きず)が含まれている。人と人が関わると多かれ少なかれ傷つく。牧野さんは、「傷つくのも、傷つけるのも怖い」と仰った。しかしそれは「共に生きる」時に必然的起ってしまう。「あるべき健全な傷」があるのだ。社会とは「傷の再分配」の仕組みだ。だから「セキュリティー」を重視し過ぎると絆が無くなり「危険」な事態となる。
「セーフティー」も「安全」と訳されるが少し意味が違う。「セキュリティー」が「危険がない状態」を指すなら、「セーフティー」は「危険が迫っても大丈夫な状態」だと僕は考える。「セーフティーネット」という言葉は、リーマンショック以降、社会保障の議論において語られるようになった。元来、「セーフティーネット」は、空中ブランコの下に張られた網を指す。これは「落とさないための網」ではなく「落ちても死なないための網」である。「セキュリティー」を求めるのなら「落ちないこと」が前提となる。そもそも空中ブランコなどという「危険なこと」は禁止した方が良い。しかし、そうはいかない。人生において人は時に空中ブランコに挑戦する。自分の前に手を広げて「おいで」と呼びかけるその人めがけて空中に身を投げ出す。その時に必要なのが「セーフティーネット」だ。「落ちても死なない」ことの保障なのだ。
希望のまちは「死なない程度に安心して失敗できるまち」でありたい。「セキュリティー」一辺倒で冷たくなった今の社会で少々危険を冒して触れ合うことが出来る。そんな「まち」を創りたい。ちなみに「希望のまち」のキャッチフレーズは「わたしがいる。あなたがいる。なんとかなる」である。

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