信仰

3/10巻頭言「大丈夫です―愛真高校卒業式保護者代表の言葉」

 何よりも申し上げたいことは、「皆さん大丈夫です」ということです。昨日の音楽祭の様子を見ていた時、そう思いました。「なんで?」とか、「理由は?」とか、聞かないでください。信仰であり、「根拠なき確信」です。もう一度言います。「みなさん、大丈夫です。たぶん」。愛真での三年間は順風満帆とはいかなかったと思います。つらいこともあったし、思いがけないことも経験したと思います。「ああ、こんなはずじゃなかった」とか、「なんでこんなことになっちゃったの」とか思ったこともあったでしょう。傷つけ合ったり、紛争もあったと思います。」生徒のみならず、愛真高校自体も30年の歩みの中で満身創痍の状態かも知れません。しかし、「大丈夫です」。そんなことを言える立場ではありませんが、私はそう思います。なぜならば、「神様は、どうでもいいものをお創りになるほどお暇ではない」からです。
私たちが経験したすべてのことは無駄ではないのです。神様が作られた故に、すべてに意味があります。苦難も神様が作られた、というと変な感じですが、事実です。私たちは、どこかで苦難の意味を取り違えてきたのかもしれません。
 遠回りをしたと思っている人もいるかも知れません。一年長く高校に行く方もいます。しかし、人生には遠回りはありません。当然、近道もありません。急がば回れと言う人もいますが、それも事実ではありません。回り道と思うその道があなたの道だからです。道は一本しかないのです。
 パウロは、コリント人への第1の手紙10章13節で「あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである」と言います。「試練と共に、逃れる道も備えてくださる」は、まるでもう一本別の道が存在しているかのようです。しかし、違います。「逃れの道」は、「エクバシス」という言葉で、出口と訳して良いことだそうです。となると、やはり道は一本だけです。苦難と試練の道も、その先に出口があるわけで、逃れる道が他にあるわけではないのです。どうぞ、一本しかないあなたの道を行ってください。
卒業です。これからが大変です。でも、大丈夫です。無駄はないからです。他に道もありません。時に、意味がわからなくなる時もあります。二〇一六年には、相模原で十九人の重い障害のある人が殺されました。理由は、「生きる意味のないいのちは殺す」ということでした。しかし、どれだけ障害が重かろうが、意味のないいのちは、存在しません。なぜならば、神様は意味のないいのちをお創りになるほどお暇ではないからです。すべてのいのちに意味があります。だから、大丈夫です。その道を行ってください。神様の祝福、すなわち「出口」が必ずあります。私たち保護者もついています。だから、大丈夫です。あなたの道を突き進んでください。
 ご卒業おめでとうございます。

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