「自己責任」は、とても大事だと思っている。私が私の人生の主役である限り、自分で選び、自分で努力し、自己実現を果たす。自分にしか成就できない人生の物語を紡ぐのだ。「自律」とはそういう事であって、あらゆる支援は、問題解決に留まることなく「自己実現」、すなわち「自律」のために存在する。
だが今や「自己責任」は、その意味を逸脱し、「出会った責任を回避」する方便となった。「それはあなたの問題だ」と言い切ることによって、人は「その人を助けなくてもよい」と思い込む。
しかし、出会いとはそんなには甘くない。人は出会ってしまうと後戻りできない。確かにすべての「出会い」に応えることは出来ないし、そんなことをしていると身がもたない。だが、どれだけ割り引いてみても、人は出会った事実を「無かったこと」にはできない。出会いの事実は自分の中に残り続ける。それほどに出会いは、私たちに豊かで深刻な影響を与える。
人は出会いの中で生きる意味を知り、意欲を醸成する。自分だけで意欲を持ち続けられる人もいるが、私のような「頼りない人間」は、自分だけでは意欲が湧かない。となると「他力本願」とばかりに出会いに期待する。自分を愛してくれる人との出会いによって人は頑張ることが出来る。逆に「自分のため」だけなら、自分が諦めた時すべては終わるが、「あの人のため」ならば踏ん張れる。
だが逆も真なり。先日こんな話しを聞いた。彼女は20歳でここにきた。苦労に苦労を重ね、それでも生きてきた。「この子はどうなるんだろうか」と心配したがあれから5年、確実に成長している姿に感動する。そんな彼女が「理事長、時間取れますか」と久しぶりに言ってきた。少々うれしい。
ドライブに出かけた。「私、山が好きっすよね」「そうなん。山っていいよね。じゃあ、今日は山に行こう」。車は桜が咲く山道を登っていく。「山は好きなんだけど、私、虫ダメなんすよね」「そうなん。虫は全部ダメなん」「全部ダメっす」。「カブトムシでもダメなん」「ダメっす。全部」。その理由を聴いた。
「子どもの頃、施設にいたんだけど、ある時、カブトムシのメスを見つけて捕まえたんす。そんで先生に『カブトムシ捕まえたよ』って見せたんだけどゴキブリだったんすよね。先生たちが『ぎゃー』ってなって。それ以来私、虫全部ダメなんっす」。
切ない。彼女は何も悪くない。先生たちの一言、つまり「他者との出会い方」が「虫は全部ダメ」につながる。虫がダメなのではない。一生懸命カブトムシを捕まえ、みんなに喜んでもらえると思ったが、真逆の結果に終わった。その痛みが消えないのだ。もしもあの日、「おお、すごいね。でも、それはゴキブリっていって別の虫だよ。すばっしこいゴキブリを捕まえるのはカブトムシの三倍むずい。君すごいね」と先生が言っていれば「虫は、全部好き。ゴキブリも好き」となっていたかも知れない。それほどに「出会い」は責任が重い。
イエスと言う人は、結局「出会った責任」を取って十字架に架けられた。とてもマネ出来ない。でも、そんな姿に「愛」を見出した人々がキリスト教を創ったのだ。
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