生きる

3/24巻頭言「いてくれてありがとう―臨床美術の人間観」

 東八幡教会にも来てくださった関根一夫先生が臨床美術に関する本を出版される。本の帯文を依頼された。関根先生にはお世話になっており、お断りすることはできない。恐縮だがお受けすることにした。 
 臨床美術における人間理解の基本理念は「存在論的人間観」である。それが集約されたことばが「いてくれてありがとう」だ。
 現代社会は「機能論的人間観」に満ちている。「機能」を重視し「出来ること」を是とし、それをもって「その人の価値」を評価する。「機能的に優れている人」に高い点数が、「できない人」には低い点数がつく。結果、「ダメな人」というレッテルが貼られる。あるいは「ダメな自分」と自己否定がはじまる。「能力のあるできる人」「うまい人」「優秀な成績を残した人」には居場所があり、そうではない人は「居場所がない」。それが「機能」重視の社会の実相だ。「能力」や「生産性」を偏重する社会の中で「厳しい評価」にさらされているうちに「消えてしまいたい」という衝動に駆られるのはむしろ当然の帰結なのだと思う。そんな社会でいいのか。関根先生らしい静かで優しい、しかし鋭い問いが投げかけられる。
 この「機能論的人間観」に対するカウンターカルチャー(対抗文化)が「存在論的人間観」である。それは「存在そのものを大切なものと考える発想」だ。「その存在といのちに対して、いてくれてありがとう」という姿勢で臨むことで「心が元気になる土台」が提供される。それがあるべき社会だと関根先生は言う。「存在論的人間観」とは「できることはうれしいこと、できないことを残念なことだと認めつつ、とにかくあなたがそこに存在し、生きていること」を尊いこととして受け止める人間観。「いてくれてありがとうございます」「お会いできてうれしいです」「来てくださってありがとうございます」「これはきれいですねえ」「それはよかったですねえ」。これらの言葉は相手に居場所を与える。
 同じく臨床美術士のフルイエミコさんが東八幡教会で臨床美術のワークショップをして下さったことがある。僕も参加させていただいた。「美術」と言われると少し緊張したが上手下手ではない。思いを線や形、色で表現する。いや、正確に言うと僕が認識する「思い」を超えて自分が描かれる。紙の上に描かれたもうひとりの自分は誰に否定されることなく「存在していた」。その事実をその場にいた人々が認め喜び合える。そんなひと時だった。
 臨床美術は「生きるを励ますアート」だと関根先生は言う。薬だけでは回復しなかった人が絵を描くことで楽しみながら回復していく。アートが持っている可能性を再発見し活用していくのが臨床美術なのだ。
 以下が帯文である。「『どう評価をされるだろうか』。ドキドキする自分がいる。不安の中、ぼくの存在はけずり取られていく。そんな時、『いてくれてありがとう』が届く。いのちのことばだ。臨床美術は絶対的にぼくの存在を肯定してくれる。ドキドキしているあなたにとどけたい。そんな本。」出版を楽しみにしている。4月中旬発売予定。

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