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社会

3/19巻頭言「ならば仕方ないなあ」  西日本新聞エッセイ その⑫

(西日本新聞でエッセイと書くことになった。50回連載。考えてみたら、これをここに全部載せると一年かかるので飛ばし飛ばしやります。)
山本(仮名)さんが姿を消した。10年前に野宿を脱し自立後はボランティアとして活躍されていた。何が起こったのか。連日、友人やスタッフが部屋を訪ねる。帰った形跡はない。もし不測の事態が起こった時は預かった鍵で安否を確認すると書面で交わしている。部屋に入ると携帯が机の上に置かれていた。自ら出て行ったのだ。何があったのか。
かつての野宿場所や立ち寄りそうな所を手分けして捜す。捜索願も出した。消息がつかめぬまま二週間が過ぎた。「ダメかも」。最悪の事態が脳裏に浮かぶ。「そんなことはない」と自らをいさめる。
そしてある日の未明、事務所に連絡が入った。数百キロ離れた警察署からだった。「山本さんという方が国道を歩いているところを保護しました。帰ろうとしていたようです」。知らせに一同安堵する。
始発に乗り迎えに行ったスタッフから出張先の僕に連絡が入る。「会えました。少しやせておられますがお元気です」。良かった。原因は?と尋ねると「ご本人は『俺、時々こうなるんよ』と仰っています。それで『時々なるんだったら仕方ないね』と申し上げました。今から帰ります」とのことだった。
僕はその報告を「素敵だ」と思う。とかくこういう事態になると、特に専門職はやれアセスメントだ、再発防止計画だと奮起する。それも大事だが、それより大切なのは「仕方ないと言える」こと。それは「諦念(あきらめ)」ではなく「受容」である。
翌日、本人とお会いした。おお、山本さんやとハグする。「すいません」とご本人。いや、終わりよければすべて良しです。でも次に「時々なったら」僕も連れてってねというと山本さんは涙ぐまれていた。だったらいなくならないでよと思うが、人は大なり小なり「時々なる」のだ。その時「問題です」「反省しなさい」「改善しましょう」と言う前に「ならば仕方ない」と言える社会で在りたい。山本さんは、何ごとも無かったように今日もボランティアに励まれている。

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