第三に、苦難は「元に戻ること」を私たちに願わせる、ということです。「われらをもとに返し」が繰り返し登場します。しかし、問題は「元に戻る」ことなどできないという現実そのものだったのです。そもそも、その後、たとえ国が復興したとしても、それは元の状態ではないわけです。その間、絶望の中で死んでいった人々は二度と戻ってきません。
私たちは、生ける神の前で生きるわけです。生きるということは、変化していくということです。昔、いかりや長介は、何があっても「次、行ってみよう」と言っていました。生きるというのは、そういうことなのだと思うのです。ある日、嵐がやって来ます。嵐の中で人々は、何を祈るでしょうか。「この嵐が過ぎ去りますように」ではないかと思います。つまり、「嵐が来る前に戻してほしい」ではないのです。しかし、深刻な苦難は「元に戻してほしい」との祈りへと私たちを誘惑するのです。
第四に、これが最も大事なことなのですが、「苦難」そのものをどう受け止めるのかと言うことです。イスラエルの民は、この時、「苦難の意味」をまだ知らないわけです。だが、彼らは、その「意味」をいずれ知ることになるわけです。つまり、イエス・キリストの登場によって、彼らは「苦難の意味」を革命的に知ることになります。イエスは、十字架を前にして祈ります。「わが神、わが神、どうして私を捨てたのですか」。さらに「この盃を取り除けてください」と祈るのです。しかし、イエスの祈りの帰結は、次の一言でありました。「しかし、わが思いではなく、みこころのままになさってください」。
キリスト教は、十字架の宗教です。つまり、教会は、イエス・キリストの十字架の苦難を否定するのではなく、その意味を考え続けたのでした。そして、彼らはそもそもユダヤ教の中にあった「神のために苦しむ僕」をキリスト教の本質だと捉えたのでした。
「苦難の除去」は、私たちの本音ではありますが、それは「宗教の本質ではない」と思います。「苦難除去」への誘惑は、「苦難の無意味さ」へと私たちを誤導してしまいます。「苦難」など無い方が良いというのは、その通りですが、「苦難」が一切無くなることは、願っても実現しないわけです。「苦難」と無縁に暮らすことはできないのです。苦難の日、私たちは、ひたすら「あの日に戻りたい」と祈るのですが、しかし、戻れません。みんな、そんなことは実は知っています。にも拘わらず、私たちは「こんなはずではなかった」とつぶやき、「あの日に戻りたい」と祈ってしまうのですが、それが私たちを一層苦しめることになるのです。
つづく
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