1、はじめに―感謝と心に刻むこと
最初に今回の賀川豊彦文化賞を心から感謝したいと思います。そもそも「あの賀川豊彦先生」のお名前がついた賞を私たちがいただくこと、しかも今回が第一回であることを考えますと大変恐縮しているというか、本当に私たちで良いのかと言う申し訳ない思いがしています。ですから、今回の受賞は、私たちへの評価ではなく、応援と期待、「もっとやれ」という言う励ましとしていただいたものであるとして感謝してお受けしたいと思います。まず、選んでくださった選考委員の先生方、また賀川事業団の皆様に心から感謝申し上げたいと思います。
何よりも今回の受賞にあたり感謝したいのは、これまで私たちと出会い一歩踏み出された「路上の人々」に対してです。がんばったのは彼らです。野宿生活と言うのは、最貧困状態であり、人間として極限状況といえます。家がない、眠れない、お金はない、食べ物もない、お風呂に入れない、病院に行けない。誰からも心配されていない、孤立無援の状態であると言えます。人前で眠り、食事をし、排泄をする。人としての尊厳が奪われ、人間性がそぎ落とされていく日々に身を置くことを意味します。あるおやじさんは私にこう語られました。「私は眠る前に祈るんです」。私は牧師なので期待をもって「クリスチャンですか」と尋ねました。しかし、彼は「神仏にはもう期待していません」。「じゃあ、何を祈るんですか」と尋ねると「もうこのまま目が覚めませんようにと祈るんです」と彼は言いました。さらに「目が覚めたら、ああ今日も生きてしまった」と思うと。野宿とは、このような現実に放置されるということです。
しかし、どん底にいた人々が、そして死にたいと思っていた人々が、わずかな支援と他者との出会いによって、もう一度立ち上がっていかれました。これは驚くべきことでした。二八年前、支援を始めた頃、周囲の人々は「好きでホームレスをやっているのだから支援をしても無駄だ。彼らはなまけ者に過ぎない」と断言していました。正直に言うと私たちも「果たして上手くいくか」と少々心配しながらのスタートでした。ただ、目の前で難儀する人を無視する勇気もなく、活動は始まりました。しかし、路上の人々はこれら「世間の予想を大きく裏切ってくれた」のでした。彼らは、わずかなチャンスを生かし、路上からの脱出を果たしていったのでした。私たちにとって、これこそが希望だったのです。「人は出会いによって変わる」。この事実こそが活動継続の原動力となりました。
最初に立ち上がったのは、五十代の男性でした。その小さな一歩に多くの人が勇気づけられ、その後に続いていきました。半年間の自立支援プログラムを経て路上を脱した人はすでに二八〇〇人を超え、今年度末では三千人を超えると予測されています。自立達成率は93%、その内就職された方は約六割。地域での生活が継続している方も九割を超えています。
だから誰よりもがんばったのは路上の人々ご自身なのです。確かに私たちもがんばりましたが、それは孤軍奮闘ではなく、何よりも当事者に励まされながらの日々でありました。常に私たちに希望を与えたのは、路上のおやじさんたち自身であったことをまずここで確認したいと思います。今回の受賞にあたり、彼らにまず感謝したいと思います。
次に、私たちの活動は、ものすごく多くの方々によって支えられていることを覚えたと思います。賛助会員の皆さん、物資や寄付を送ってくださる方々、実はこの活動を続けるには毎年二千万円以上の寄付を必要とします。行政からの委託事業や障がい福祉事業や介護事業もやっていますが、最も困難な状況に置かれている方々への活動は寄付によって実施されます。「谷間に置かれた人々への新たな取り組み」、すなわち「誰もやっていないが必要であること」を実施するには寄付が必要です。寄付はNPOにとって「自由の担保」なのです。残念ながら日本社会には「寄付文化」が根付いていません。その日本社会において、私たちの活動が30年近く寄付によって続けられたことは、これ自体が奇跡と言っても良いと思います。多くの人々の思いが寄せられた結果でした。「ホームレス支援法律家の会」、不動産業者集りである「居宅設置支援の会」、学識の方々、協力企業、生活協同組合、行政担当のみなさん、会派を超え協力くださった議員の皆さん、自立後の地域の暮らしを相互に支え合うための当事者組織「なかまの会」のみなさん、「支援する側、される側」を乗り越えるための「互助会」も生まれました。
数えきれないほどの多くの方々が、支えてくださった30年でした。さらに、日々現場でいのちに向き合うNPOのスタッフの働きは、「闘い」と言っても過言ではない苦労の連続でした。出会いを核とする「伴走型支援」を実施するにおいては、彼らの汗と涙は不可欠でした。伴走型支援は絆の支援です。そして絆は傷を含むのです。スタッフに心より感謝したいと思います。そして、こんな「あぶない活動」の責任を負う理事の皆さん。今回の受賞をこれらのすべて方々と分かち合いたいと思います。この受賞は、このような多くの方々の「協同」によってなされたという「事業の形態」に対する評価であったと理解しました。賀川賞の意義を見る思いです。もち帰ってみんなで喜びたいと思います。
そして、一方で受賞を機にどうしても心に刻まなければならない人々がいます。それは支援が間に合わず、あるいは最期まで心を開くことなく路上で死んでいった人々です。私たちは、その都度泣いてきました。悔しくて、あるいは自分を腹立たしく思い泣きました。
夏とお正月に追悼集会が開かれます。二〇年以上続く路上の追悼式には、家族の元に戻ることが出来なった人々の名前が刻まれた追悼碑が並びます。追悼碑と言っても丸太を割っただけの簡素なものです。お墓の無い人々へのせめてもの弔いでした。
路上で人が亡くなる場合八割が「無縁仏」と呼ばれる状態となります。自立した後も家族の迎えがあるのは二人に一人。年々増え続ける追悼碑の前で「お前は、この人が亡くなった時、どこにいたのか、何をしたのか、何をしなかったのか」と問われ続けてきました。私たちの活動は、「罪人の活動」に過ぎません。赦してもらわないと前には進めない活動なのです。私たちはそれでも「無縁とは言わせない」との思いで葬儀をし、追悼を重ねてきたのでした。私が牧会を担う東八幡キリスト教会には昨今新しい会堂が与えられました。「軒の教会」と呼ばれるその礼拝堂には、記念室(納骨室)があり残念ながら家族の元に戻ることができなかった方々の遺骨が安置されています。現在八〇体以上が教会に眠っています。「軒」とは人と人の出会う場所を意味します。今回の受賞は、このようにして先に逝った人々に対して正直申し訳ないという気持ちがあります。いずれ天国で再会する日、受賞の報告をしたいと思います。虫のいい話ですが、赦してくださると信じ、彼らに報告したいと思います。
2、 活動報告
私たちの活動は、1988年12月にスタートしました。活動の最大の特徴は、二つの困窮概念を持ったことでした。二つの困窮概念とは、「ハウスレス問題」と「ホームレス問題」です。つまり、ハウスとホームは違うということを前提として活動してきました。ハウスは、「住む家がない」に象徴される経済的困窮を意味します。家がない、食べるものがない、仕事がない、病院に行けない、しかし、借金はある。そんな経済的困窮状況をハウスレス状態と呼びました。
一方、ホームレスは、ホームと呼べる人との絆が切れているという社会的孤立の問題であるという認識を持ちました。路上では「畳の上で死にたい」という人がアパート設定後、「もう安心」とは言わない。「俺の最期は誰が看取ってくれるだろうか」という問いを発する現実を何度も見てきました。
この二つの課題を同時に解決する。それが私たちに与えられた課題でした。
経済的困窮・ハウスレスに対しては、この人は何か必要かを問いました。路上の炊き出しから始まり、アパート設定、就労支援とあらゆる具体的支援を実施しました。結果、自立率は9割を超え、就労率は58%に及びました。自立後アパートを訪ねます。路上時代とは隔世の観があります。しかし、部屋にひとりポツンと座っている姿は、路上の片隅でひとり段ボールの上に座る姿と何も変わっていないという現実を見ました。何が解決して、何が解決していないのかが問われた思いがしました。そこにあったのは、「誰がいてくれるか」という「人の問題」でした。つまり、「ホーム」と呼べる人がいないという現実でした。故に、私たちは、「この人には何が必要か」と共に、「この人には誰が必要か」を問い続け、自らもその誰かになろうとしてきたのでした。ハウスレス―経済的困窮とホームレス―社会的孤立をいかにして同時的に解決するかが大きな課題となりました。
約30年前、この視点を与えてくれたのは、路上のおじさんでした。繰り返される中学生による襲撃事件の被害者だったあるホームレスのおじさんがこう仰ったのでした。「一日も早く襲撃を止めてほしい。でも、夜中の一時、二時にホームレスを襲っている中学生と言うのは、家があっても帰るところがないんじゃないか。親はいても誰からも心配されていないんじゃないか。俺はホームレスだからその気持ちわかるけどなあ」。この言葉が胸に突き刺りました。襲撃する中学生には、家はあり、親もいます。彼らはハウスレスではありませんでした。しかし、ホームレスを襲う中学生にも、襲われるホームレスにも、帰るところ、心配してくれる人がいません。彼らは、共にホームレスでありました。
その後、30年経って、路上で見られた「ホームレス現象」は、すでに日本中に広がり、自己責任論がそれに拍車をかけました。結果、社会は無縁化していったのでした。私たちの活動は、路上の最貧困の人々に対する自立支援のみならず、この無縁化する社会、あるいは非社会化に対する抵抗であり、対抗文化(カウンターカルチャー)だったと思っています。
3、大切にしてきたこと―人を大切にする・人であることを大切にする
無縁化に対する闘いは、「人を大切にする」ということでした。それは、「人であることを大切にする」ということでもありました。今日、あらゆる分野で「自立支援」が課題となっています。ややもすれば「人であることよりも自立することが大事にされている」のではないかと思うことさえあります。制度に人が振り回されてもいます。確かに自立は大事です。しかし、当然のことですが、自立よりも人が大切なのです。
私は、最近新学期が来るのが怖いのです。それは、子どもの自死のニュースが新学期の度に流れるからです。一昨年の自殺白書では、過去42年間365日の子どもの自死についてのデータが公表されました。一日平均で50人以上子どもが自死する国となっています。中でも9月1日は131人。前後の日を入れると倍ぐらいになります。過去42年ですから9月1日は、42回ありました。この日は、平均で毎年3人の子どもたちが自死する日となっています。
しかし、子どもは、なぜ助けてと言わないのでしょうか。子どもは、助けてと言っていい。子どもは、泣けばいい。子どもは、逃げればいいと思うのですが。にも拘わらず子どもは「助けて」と言わないままに死んでいく。
何が原因か。学校か、家庭か、イジメか?それらにも問題があると思います。しかし、私は、思うのです。最大の問題は、私たち大人が助けてと言わないからではないかと。1990年以後の失われた時代と呼ばれた日々、日本社会は経済至上主義、市場原理主義、新自由主義の社会となり、競争が激化しました。自己責任論が跋扈する時代が久しく続いています。そして、私たち大人は「助けて」を封印しました。失われ続ける日々の中で、「助けて」は負け組の象徴となっていきました。それは「情けない」ことであり、「迷惑は罪」という社会道徳が浸透していきました。リーマンショックの後、多くの青年が路上に現われました。彼らもまた「助けて」と言いませんでした。路上に出向き、「助けてと言っていいんだ」と説得しましたが、「助けてと言っても、何を甘えているんだ、なぜ、頑張らないのだ、自業自得だ、と言われるだけだ」と彼らは口を閉ざしました。さらに、多くの若者が、「これ以上家族に迷惑をかけたくない」と帰郷を拒みました。「迷惑をかけるぐらいなら野宿する。迷惑をかけるぐらいなら自死する」。それが今日の社会道徳となったのです。
そんな大人社会を見ていた子どもたちが、助けてと言わないのは当然の結果なのかも知れません。子どもからすれば「立派な大人」とは、「助けてと言わないで、ひとりで生きていける大人」だと見えていた、いや、私たちが見せてきたのではないかと思います。
しかし、それは嘘でした。実は大人も本当は助けてほしかった。いや、現に助けてもらって生きてきたのでした。それが真実でした。「正直に言ったら赦してあげる」と大人は言います。そろそろ正直に言う時が来たのだと思います。子どもたちに正直に言って赦してもらうことが、新しい社会を創造することになると思います。
その正直さの中身は何か。それは「人であること」そのものだと思います。では、人とは何か?一言でいえば、「助けを必要する弱い存在である」ということ。あるいは、「悪を内在している存在である」ということです。出会いによって変わっていく人間に希望を見出しつつ、変わることのできない人間の現実も見てきました。繰り返し崩れていく人間の姿や嘘や裏切りも珍しいことではありません。それは、私たちが常に「被害者であった」ということを意味しません。私たちもまた、できないことだらけであり、大言壮語にまみれ、失敗の連続だったのです。
このような活動を三〇年近く続けてきた結果、私たちは何を得たのか。そんなことを古参のスタッフと先日話しました。何よりも二八〇〇人を超える自立者、多くの協力者、スタッフ、そして今回の受賞。大切なものを得た日々でした。しかし、私は、もっとも大きな獲得物は、「そんなこともあると言えるようになったこと」だと思っています。「たいがいなこと」が起こりました。想像をはるかに上回る出来事に翻弄されたことは一度や二度ではありませんでした。しかし、そんな日々の中、私たちは「そんなこともある」と言えるようになったのでした。しかも、その理由は単純に「人間だから」でありました。「人間だから、そんなこともあるよね」と言える。これは大きな恵みでした。
そんな風に私たちは、問題を抱えつつも「人間」を大事にしてきたと思います。自立も大事ですが、それ以上に「人」を大切にしてきましたし、さらに「人であること」を大切にしてきたと思っています。
では、人とは何か。旧約聖書、創世記二章の創造物語において、神は「人が一人でいるのはよくない。彼のために助け手を造ろう」と仰いました。更に一章の創造物語では、神は人間を最後に創造され、人に「すべてのものを治めよ」「地を従わせよ」と仰っいました。いかにも人間が世界の支配者として神に任命されたかのように思わせる箇所です。現に、そのように理解したキリスト教を基盤としたアングロサクソンの文明は、自然破壊に無頓着であったと思います。しかし、私はそう理解していけないと思います。人が、最後に創造されたその理由は、人が「支配者」に任命されるためではなく―それならば最初に創造されても良いわけですが―ではなく、人と言うものは神が創られた世界のあらゆるものが整っていないと生きていけない、そのような相対的で弱い存在であったからだと思います。海も空も、大地も森も、動物も魚も、すべてに助けてもらわないと生きていけない、それが人であることだったのです。「治めよ」、「従わせよ」は、言語的にはきつい言葉が使われているようですが、それは「保全せよ」や「管理せよ」、つまり「きちんと守りなさい。さもないと人は滅びますよ。放射能で海や大地を汚してはいけません」と読むべきだと思います。「人であること」を大切にするとはそのようなことでありました。私たちは、人がいかにひとりでは生きていけない存在であるかを繰り返し現場において確認してきたのでした。
しかし、「失われた」と呼ばれ続けている年月の中で自己責任論社会は「独りでがんばる」ことを強要し続けました。結果、誰かに助けを求めることや依存すること、他人に迷惑をかけることを「悪である」と決めつけたのです。
「自立」と「依存」は、反対概念として理解されます。しかし、それは本当でしょうか。三〇年近く、数千人の死線をさまよう人々が立ち上がっていく姿は、その両者が決して「対立概念」ではないことを証明していたように思います。路上からのエクソドス(脱出)には、住居確保や就労のみならず、社会参加、すなわち他者に対して「助けてと言えること」、あるいは「助けてと言われること」が必要であることを見てきました。自立とは、助けられながら生きることであり、誰かを助けながら生きることです。健全に他者に依存できることが重要なのです。あるいは相互的に両者が成立すること。ですから、自立と依存は「対立概念」ではなく「対概念」だと言えます。他者に健全に依存できない人は自立できません。それは自立ではなく孤立に過ぎません。また、常に誰かに依存状態でひとりなれない人は「単なる依存症」に過ぎません。ボンヘッファーは「ひとりでいることのできない人は、共にいることを注意せよ」と語りましたが、ひとりになれない人が誰かと共にいることは難しく、また誰かと共にいない人がひとりになると危険であることを私たちは繰り返し現場で見てきました。私たちは自立の反対は孤立だと考えてきました。
4、おわりに―罪人の運動として
私たちは、弱さに正直に活動してきました。最近、私の相棒である森松専務と「三〇年近くやってきて、我々は何を得たか」について語り合いました。お互いが一致したのは「まあ、そんなことぐらいあるよねと言えるようになったこと」でした。当初は「ホント!うそ!信じられない!」と一喜一憂していましたが、神様は歩みの遅い私たちをも鍛えて下さったのです。そして何が起こっても「まあ、そんなことぐらいあるよね」と言えるようにしてくださった。これは大きな恵みでした。なぜ、そう言えるのか。理由は一つだけです。「人間だから」。「人間だから、そんなことぐらいある」と言える。現場において最も大切なことでした。「人間の弱さを前提とする」。NPO法人抱樸の三〇年とは、徹底的にそこに立つことでした。
一七年前。最初の施設を開設しました。なけなしの資金を集め、やっとのことでアパートを五部屋借り上げたのです。そして野宿状態の人々に「自立支援住宅」ができたこと案内しました。すると七〇人が応募された。私たちは「やはり施設が必要なのだ」と手ごたえを感じました。
しかし、七〇人から五人を選ぶ作業は、新たな苦難の始まりでした。六五人を落とすのです。誰が助かり、助からないのか。選考会議は難航しました。結論が出ないまま数時間が過ぎていきました。「良いことしている」と興奮していた私たちの熱はすぐに冷めていきました。そして現実の重さにたじろぎました。支援と言いつつ、人を裁き、人を傷つけているに過ぎないのではないか。結果、人を殺すことになりかねない。すべてが「罪ある弱い人間の仕業」であるという現実でした
当初あった「良いことをしている」という快活な思いで始まった選定会議が重い空気に支配されて行きました。会議開始から五時間が経過。日付が変わっても会議は終わりませんでした。そして、私はホワイトボードに「罪人の運動」と書きました。「もし落とした人が翌日亡くなったとしも『仕方がない』とは言えない。私たちは、そのことに責任を負わざるを得ない。だが、それでもやっていこうと思う。これは罪人の運動に過ぎないのだ」と説明しました。静かに皆が決意した日でした。
翌週の炊き出しで、支援住宅入居者選考について報告しました。六十五人を落とした事実を告げ「赦してほしい」と申し上げました。すると炊き出しの列から「がんばれよ」との声と共に拍手が起こったのでした。少しだけ赦された気持ちになりました。罪人の運動。これは否定できない事実です。活動開始から来年で三〇年になります。一体何人の人を傷つけ、何人を「殺して」きたことでしょうか。確かに二八〇〇人以上がいのちをつなぎました。私たちが多少頑張ったのも事実でしょう。しかし、亡くなった人と助かった人を差し引きすることはできない。それは、個々人が尊厳のある個であるからにほかなりません。
賀川先生は、贖罪信仰を大切にされたと聞いています。あれだけの活動に身を投じられた賀川先生にとって贖罪信仰は必然だったのだろうと思います。赦されないとできない。それが、神の国運動の内実だったのではないか。
私たちは、赦された罪人としてこの賞をお受けしたいと思います。この事実を常に心に刻み、決して傲慢にならず、自分自身を含め人の弱さと罪の現実を前提とした活動を続けたいと思います。赦された罪人同士、「そんなことぐらいある」と言いながら歩んでいきたいと思います。
今日の世界は、真逆の方向に向かっているように思います。強さを求めている。こわもてのリーダーたちが、人を裁き、分断し、傷つけることをマイクの前で平気で語っています。「~ファースト」ということが強調されます。「ファースト」の範疇にいる人には心地よいでしょう。しかし、それを言った途端「セコンドの人」が現れ、「サードの人」が現れます。ついには「入局を拒否される人々」が選別され、「生きる意味のあるいのち」と「生きる意味のないいのち」が分断されます。自分の事しか考えない排外主義が世界を覆おうとしています。そのような今日の世界にあって、人の弱さを前提とすることは対抗文化(カウンターカルチャー)となります。
闇は深まっています。しかし光は闇の中に輝くのです。「闇が過ぎ去り光が来た」とはなりません。光は、闇の中に輝く。こわもての人々は、自分が光だと民を扇動するでしょう。しかし、本当の光は十字架・闇において明らかになります。抱樸は、人の弱さと闇を見つめつつ、その弱さこそが他者との絆の内実であることを証しする人でありたいと思っています。
発足30年を間近に控えたこの時、賀川豊彦賞をいただけたことに改めて感謝申し上げます。その責任を感じつつ今後も歩んでいきたいと思います。本日は、本当にありがとうございました。
おわり
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