(新年礼拝は、毎年干支にちなんだ話をする。今年は「酉年」。)
毎年新年礼拝は、干支にちなんでお話しをしています。今年の干支は「とり」です。十二支では、「酉」と書きます。この「酉」が何の鳥かというと「鶏(にわとり)」のことだそうです。なんで、鶏かというと、わからない。一番庶民にとってなじみの深い「とり」が鶏であったようです。そもそも「十二支」は古代中国で方角や時刻、月を表すものとして用いられてきたそうで、「酉」という漢字は、「酒つぼ」に由来するものらしい。収穫した作物から酒を抽出する、あるいは収穫できる状態となることを意味しており「実る」ということを表しています。実は、十二支の子、丑、寅、卯…亥には動物の意味は無かったらしく庶民が十二支を覚えやすくするために身近な動物が当てられたと言います。そんなわけで、今年は(要らない?)「にわとり年」が選ばれた理由はわかりません。そういうことで今年は、鶏のお話しはしませんが、「とり」の話し、しかも「おおとり」の話しをします。
ヨハネによる福音書八章には、いわゆる「姦淫の女の話」が登場します。でも、この部分が括弧の中に入れられています。聖書は、原文がありません。「写本」と呼ばれるコピーがあるだけで、多くの写本が比較研究されて今の一冊にまとめられています。この部分が括弧に入れられているのは、写本の中にこの部分がないものがあるからという事らしい。一方でこんなことを言った人もいます。「この箇所がそのような扱いになったのは、信仰の弱い人々を躓かせる危険があるから」だと。どいうことかと言うと、姦淫の罪を犯した女に対してイエスがあまりにも寛大な態度を取っているので、読んだ人の中に「姦淫の罪は容認される」と読んでしまう人が出かねないという心配をしたらしい。それを言ったのは、古代キリスト教の教父アウグスティヌスだそうです。確かにイエスは、この女に「私もあなたを罰しない」と言っておられるので、そんな心配が生じるようです。
しかし、イエスは姦淫の罪に対して、あるいは「人が罪を犯す」ということについて本当に寛大であったのでしょうか。「まあ、時々ならいいよ」なんて、イエス様は仰るのか。イエスは、人が罪を犯すということをどのように考えておられたのか。そんなことを考えてみたいと思います。
一人の女性が皆の前に連れてこられます。彼女は、姦淫の場で捕まえられました。姦淫というのは、結婚相手以外の人と仲良くすることで十戒においても禁じられていたことです。ただ、捕まったのが女性だけで相手の男は最後まで登場しません。なんだか不平等な感じがしますが、その理由は書かれていません。当時が「男尊女卑」の時代であったことも手伝っているかも知れませんがわかりません。
女性を連れてきたのは、律法学者やパリサイ人たちです。彼らは、十戒や律法の専門家で日ごろから自分は「義しい(正しい)」と自負していたような人たちでした。彼らは、女性に関してイエスに質問します。「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」(四-五節)。
これには下心がありました。「彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった」(六節)。イエスの何について訴えようとしたのでしょうか。彼らは、イエスがモーセの律法に反してこの女性を不問に付し赦すなら律法違反ということで訴えようと考えました。逆に、イエスが女性を裁くことに賛同するとイエスがこれまで語ってきた「赦し」の教えと矛盾することになり、イエスの評判は悪くなると考えていたようです。本当にせこい人たちです。いずれにせよ、イエスを陥れることが出来ると律法学者やパリサイ人は考えていました。イエスは絶体絶命の危機を迎えました。
2、イエスの答え
「しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた」(六節)。一体何を書いておられたのかは不明です。そして、イエスは彼らの問いに答えられました。「彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、『あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい』。次のイエスの一言は、女を審き、殺そうと息弾ませていた人々、イエスを訴えようとしていた人々を沈黙させた」(八節)。このイエスの答えに人々は衝撃を受けました。「これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された」(九節)のでした。日ごろは、律法を振りかざし何が正しいのかを議論していた律法学者も自分は律法を守っていると言いながら、守ることのできない庶民を見下していたパリサイ人も、その場に残ることはできませんでした。そもそもパリサイ派とは「分離派」と自称した人たちで、自分たちは律法を守ることができないような情けない人たちとは違うということを言ってはばからない人たちでしたが、彼らもイエスの言葉に耐えることはできませんでした。律法学者、パリサイ人、両者を含めた、その場にいた全員がイエスの一言で立ち去らざるを得ませんでした。
このイエスの一言が、どれほど人間にとって根本問題をつくものであったのか。それは、大変深く、本質的な一言でした。「年寄りから始めて」と書いてあります。年を取るということは実に素敵なことであると言えます。若いうちは自分のことがよくわかりません。過度な期待を自ら負わせたり、極端に自己否定したりします。だが、年を重ねると自分が分かってきます。なぜならば、長きに渡り、自分の弱さや罪の現実を繰り返し経験して年老いていくからです。だから「年寄りから始めて」と言うことになります。そういう「正直なお年寄りの姿」に、若者たちも自分を見つめのだと思います。まあ、そうでもないお年寄りも世の中にはおられますが、そういう人は肉体に比べ中身はあまり年を取っておられない、「若い」ということになります。喜んでいいのかどうかは知りませんが。しかし、この時は、全員が退場したのでした。すなわち全員が自分は罪人だと認識したのでした。
3、全員が罪人という現実
ヨハネによる福音書八章のこの場面は、私たちに何を伝えようとしているのでしょうか。これまでこの「姦淫の女の話」のテーマは「罪の赦し」だと捉えられてきたように思います。確かに姦淫の女は、罰せられることはありませんでした。だが、それをもって「罪は赦された」と言って良いものでしょうか。
「罪の無い人から石を投げよ」というイエスのことばは、何喰わぬ顔で他人を裁こうとしていた人々の罪の存在を告発した言葉でした。イエスは、罪を曖昧にはしておられません。イエスは、「お互い罪人同士なんだから、責め合うのは止めて、片目をつむりましょう」と言われているのでもありません。もし私たちがこの箇所をそのように解釈するならば、私たちは自分の罪の問題の深刻さを何一つ理解していないことになります。
イエスは、「お前は罪人だ」とはっきり仰っているのです。それは、登場人物に限った問題ではなく、聖書を読むすべての人に対して言っておられるのです。私たちは、芝居の舞台を楽しむように見物人気分で聖書を読むことはできません。「罪の無い人から石を投げよ」というイエスのことばは、すべての人に対して投げかけられた言葉であり、私に対しても、あなたに対しても投げかけられた言葉でした。つまり、すべての人間が問われたのです。イエスは「あなたは何者か」を問うておられます。誰一人石を投げることができない、つまり「君たちは、全員罪人だ」という現実を突きつけられるのです。
イエスのことばは、女を裁こうとしている律法学者やパリサイ人に対する皮肉の言葉でもなく、姦淫の女を助けた機知に富んだ言葉でもありません。それは、私を問うた言葉として読むべきです。つまり、誰一人石を投げることはできない罪人だということでした。「これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された」(九節)。女を処罰できる人はそこにはいませんでした。最後に残ったのはイエスおひとりだったのです。
4、私もあなたを罰しない
イエスは、女に語りかけられます。「そこでイエスは身を起して女に言われた、『女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか』女は言った、『主よ、だれもございません』。イエスは言われた、『わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように』」(一〇~一一節)。イエスは女に「わたしもあなたを罰しない」と仰いました。確かに罪の女は赦され、生きて家に帰ることができました。しかし、大きな問題が残されています。それは「罪」の問題です。この女の犯した「罪」はどうなったのでしょうか。「あなたを罰しない」は、「あなたの罪を不問に付す」ということでしょうか。つまり、「罪が赦された」ということを意味しているのでしょうか。ここを注意深く読みたいと思います。ここの解釈次第では、キリスト教は立ちもし、倒れもします。
もう一度イエスの言葉を見てみましょう。「わたしもあなたを罰しない」。イエスは「わたしもあなたの『罪』を罰しない」とは言っておられません。罪が不問に伏されているのではなく、罪人である女を罰しないと言われているのです。
少なくない教会が、イエス・キリストによってもたらされた恵み、あるいは救いを「罪の赦し」と教えています。イエス・キリストによって「罪の審きは無くなった」と。しかし、それでは「罪の是認」という事態となります。アウグスティヌスの心配はここにあります。つまり、「どんな悪いことでもしても良い、なぜなら罪が罰せられることは無いのだから」ということになるわけです。
イエスの「私も罰しない」の目的語は「罪」ではなく「女」であることは明確です。そうすると、「罪の審き」は厳然として「ある」ということになります。だから故にイエスは、「今後も罪を犯しても良い。なぜならば罰する人はいないのだから」とは仰らず、「今後は罪を犯さないように」と仰るわけです。「罪を犯すな」は、イエスの罪に対する明確な否定です。女は、「赦された罪人」としてその後の人生を送ったのです。
では「女の罪自体はどうなったのか」。これが最大の問題です。パウロは罪に対してこのように語っています。「罪の支払う報酬(報い)は死である」(ローマ六章)。旧約聖書(ユダヤ教)においても、キリスト教においても、罪は決して曖昧にされません。ユダヤ人たちは、罪の贖いとして「全焼のいけにえ」を神にささげました。つまり、罪は死をもって償われるのであり、パウロもそう明言しているのです。だから、あの姦淫の場で捕まった女の罪はやはり裁かれなければならない。しかも、当然死をもって支払われなければならないのです。
さらに、女を裁こうとして集まった人々の罪はどうでしょうか。律法学者やパリサイ人の罪はどうなったのでしょうか。あの場にいた人は全員罪を認めたはずです。彼らは、女に罪の償いをさせるために石をもって集まりましたが、その支払いは、姦淫の女のみならず、彼ら全員に請求されたのです。彼らには女を裁く資格はなく、彼ら自身が石に打たれる人間に過ぎなかったのです。
しかし、彼らもまた家に帰って行きました。彼らの罪はどうなったのか。彼女の罪はどうなったのか。罪の審きは、実行されないのでしょうか。そんなことはありません。パウロの言葉は、今も厳に成就すべき言葉です。
群衆は帰って行きました。女もまた帰って行きました。そして、あの場、あの審きの場にイエスおひとりが残されました。それは、イエスが、あの女の罪、年寄りの罪、律法学者の罪、パリサイ人の罪、すなわち全員の罪を引き受けられたということを意味します。罪の審きは、イエスによって引き受けられ、イエスにおいて執行されたのでした。それが、イエスの十字架の出来事の意味でありました。罪の支払う報酬は、イエスによって支払われたのでした。
女は、帰っていく途中、何度も振り返ったに違いありません。審きの場には、イエスがたったひとり立っておられました。イエスは手を振りながら「もう帰りなさい。大丈夫だから帰りなさい。あなたの罪の報いは私が受ける。あなたは赦された罪人として生きなさい。もう罪を犯さないように生きていきなさい。全員、家にお帰りなさい。人を裁くようなことは止めなさい。最後に残るのは私だけでいい。あなたの罪を最後の引き受けをするのは私なのだ。私はそのためにきたのだ。最後はわたしが引き受ける。私はあなたの十字架を負う。安心して行きなさい。もう罪を犯さないように」と仰るのです。女は何度も何度も頭を下げながら家に帰ったと思います。
支払いは免除されず、罪は赦されません。ただ、私の支払いは、イエスによって贖われたのです。私たちは、イエスをひとり十字架に残し帰っていくのです。十字架当日、やはり弟子たちは、あの場にはいませんでした。本当は、彼らが十字架に架けられたはずでした。しかしイエスは「帰れ」と促される。弟子たちは、何度も振り向きながら立ち去ったのです。
赦された女は、赦された人々は、そして赦された私たちは「ラッキー、儲けもん」と思うわけにはいきません。「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」というイエス・キリストのことばに真剣に向き合い、その後を生きようとするのです。残念ながら、人間は再び罪を犯すでしょう。この女もその後も大なり小なり罪を犯したと思います。しかし、その支払いをイエス・キリストが引き受けてくださっていると信じる者は、やはりそれまでとは違わざるを得ないのだと思います。
私たちは、毎週礼拝に集まります。そして礼拝後、自分の場所へ帰って行きます。それは、まさにイエスをひとり十字架に残して立ち去ることではないかと思います。「お帰りなさい。もう罪を犯さないように」というイエスのことばを背中に聞きつつ、私たちは最後の始末をイエスに負わせ、帰っていく。振り返りながら、申し訳ない思い、感謝な思い、情けない思いを持ちつつ帰って行くのです。キリスト者にとって「礼拝する」とはそういうことなのだと思います。感謝であることは当然ですが、あまりお気楽に「イエスさま!ありがとう!!」とスキップしながら帰っていく、そういうことでもありません。「後ろ髪をひかれる」という言葉がありますが、あの女は、まさにそんな思いで、振り返り、振り返り戻って行ったのでした。残念ながら、今日のキリスト教会において、この思いが少々かけているように思えるのは、私だけでしょうか。なんだが実に明るい。悪くはないですが、一人残られたイエス様のことを考えると、そうとばかりも言ってられません。
さて、新年礼拝のお話しはこれでおしまいです。ああ、どこが「とり」の話だったか・・・。お気づきの方は、もうお気づきだと思います。イエスは、私たちの最後を担ってくださったわけです。つまり、イエスが最後を締めくくられた。「とり」を果たしてくださったのは、イエスでした。しかもそれは本当の「おおとり」として私の最後を引き受けてくださる、ということです・・・お後がよろしいようで。
二〇一七年も赦された罪人として、振り返りつつ、感謝しつつ、歩んで行こうと思います。
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