ようやく若松英輔さんをお迎えすることができた。何年越しだったろうか。感動が冷めやらず、多くのことを考えさせられた。
若松さんは、痛みや悲しみ、声にならない呻(うめ)きが大切だと話された。神はその呻きを聴いておられると。以前、若松さんの「日本人にとってキリスト教とは何か」(NHK出版新書)を読んだ時にも印象に残ったのが「目には見えない『痛み』の場所、そうした打ち消しがたい不可視な実在」を「魂」と呼んでおられたことだ。誰かに聴いてもらう「嘆き」ではない。独り「呻く」。そんな「呻き」と痛みの場所が「魂」だと。しかし、人はそれを独り抱えるのではない。魂は人間を超えたもの、すなわち神に通じる「通路」なのだ。信仰とは信じることができたかどうかという人間の意思の問題ではなく、その事実に身を置くことなのだ。「魂の傷や魂を流れる『泪』は目に見えない。(中略)それにふれるとき、人は人でありながら、人間を越えたものの通路になっているようにも感じられます」(同書)。傷ついた人の魂が神との「通路」となる。その人を通して私たちは神と出会い、神の恵みを知る。
先日、ある方が「人はシャンパンタワーのように他者と共に生きる」と言われていた。一番上のシャンパングラスが自分。それが満たされ溢れた時、下の人々のグラスにシャンパンがいきわたる。「まずは自分を大事にすること。自分が幸せでないと他人を幸せにすることはできない」と仰っていた。その通りだと思う。自分の痛みに鈍感な人は他人の痛みに鈍感になる。以前からそう思ってきた。だから、自分のことを大事にできないと他人のことを大事にすることができないということもそうだと思う。自分を赦してあげること、褒めてあげること、大事にすることをなおざりにしない。攻撃的な世の中でそれらはとても大切だと思う。
自分というダムを幸福で満たさないと他の人に水(幸福)を分けることは難しい。確かに。一方若松さんは「通路」だという。そこには順番ではない。「通路」はダムではないので溜める必要はない。溜まらなくても役割を果す。つまり「誰かに通じる(つながる)路」、それが「通路」だ。シャンパンタワーというトリクルダウン(徐々に滴り落ちる)方式は、ややもすると僕みたいな欲張りにとって少々危険。たぶんどれだけ注いでもらっても「満タン」と思えず「もう少し」と考える。となるといつまで経っても次にあふれていかない。新自由主義の世界はトリクルダウンは起こらず超富裕層を生み出した。「自分だけ」と考える人が増えた。若松さんの「通路」は、こういう時代に対するカウンターカルチャー(対抗文化)なのかも知れない。「通路」は相互的で私、神、他者と行き来する。この双方向性が重要なのだと思う。そうして自分以外の存在とつながることが結局自分を大事にすることになる。
「通路」である若松さんを通して僕は大事なものとつながれたように感じた。心から感謝したい。またお呼びしたいと思う。
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