生きる

2/20巻頭言「おバアはんの教え」

苦しみは一つだけでも大変だ。それが重なると「もう堪忍して」と言いたくなる。人生にはそんな「バッドなタイミング」がある。重なる、多重事故みたいなことが起こる。僕の場合、留学が中止になり教会は分裂し、口頭痙攣で入院した。39歳。そんな気弱の時に「あなたの先祖の祟りが」などと言われるとその気になったりするのが人間なのだ。

そういう時にどうするか。「じゃりン子チエ」という漫画は学生時代によく読んでいた。こんな場面がある。チエ(チ)とおバアはん(お)の会話である。

(お)そういう(悩み事がある)時メシも食べんとものを考えるとロクなこと想像しまへんのや。ノイローゼちゅうやつになるんですわ。おまけにさむ~い部屋で一人でいてみなはれ。ひもじい・・・寒い・・・もう死にたい。これですわ。

(チ)ウチいややなあ・・・

(お)いややったら食べなはれ。ひもじい寒いもう死にたい。不幸はこの順番で来ますのや。

(チ)こわいっからとりあえず食べよ。

嫌なことが起こる。そのことが頭から離れない。飯がのどを通らない。だからと言って食べないとロクなことを考えない。さらに「ひもじい」「寒い」「ひとりりぼっち」が追い打ちをかける。となると「もう死にたい」となる。そんなおバアはんの含蓄のある言葉にチエはどうしたか。「とりあえず食べよ」といってラーメンを食べ出す。苦難の上に、ひもじい、寒い、ひとりぼっちが重なることで「死にたい」になる。ならばその内一つでも外す。おおもとの問題は解決していないが「死にたい」は回避できる。生きるとはそういう事なのだ。問題がないから、あるいは問題が解決したから生きられるのではない。問題はあり続けているが死なない生き方はある。

さらにいうなら多重リスクを減らすだけが道ではない。おおもと問題はありつつもそれ以外の「なにか」があれば生きられる。それが「たくさんあるほど」なんとかなる。問題の何倍も「なにか」があることで人はごまかしごまかし生きていく。その「なにか」は、問題を凌駕する「良いこと」でなくてもよい。「小さなこと」の積み重ねて十分だ。食べるとか、誰かに会うとか(相談ではなく)、空を見るとか、歌うとか。そんなことに包まれて人は生きていける。

星野富弘さんがこんなことを言っている。「今日もひとつ 悲しいことがあった。今日もまたひとつ うれしいことがあった。笑ったり、泣いたり、望んだり、あきらめたり、憎んだり、そして、これらの一つ一つを柔らかく包んでくれた数えきれないほど沢山の平凡なことがあった」。ノイローゼの専門的知見については知らないが、それは「数えきれない平凡なこと」が無くなった状態なのだろう。あるいは無くなったと思い込む状態。でも、おバアはんが教えてくれたように日常を続けること、例えばラーメンを食べることでごまかせる何かがある。

「人はそれでも生きていきますのや」。おバアはんの声が聞こえる。

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