信仰

2/14巻頭言「光は闇の中に輝く―コロナの中で考えたこと その①」

(カトリックの雑誌「福音宣教」12月号に寄稿しました。)

一、はじめに―コロナの現状

年末にかけてコロナの感染が日々「過去最高」を更新している。ワクチン接種が始まった一方で「変異種」が見つかった。感染者数は23.6万人(12月31日現在)、死者も3,292人となり、一日の感染者数は500人に迫ろうとしている。コロナが経済に及ぼす影響はさらに深刻でコロナ関連失業者数は8万人を超え自殺者も増えた。政府は、給付金や貸付金などで対応しているが給付の期限も迫っている。(2月14日現在ではこれをはるかに上回っている。感染者41万人。死者6,863人)

先が見えない不安の中で一年が過ぎた。「いつ終わるのか」と祈る思いで皆が過ごしている。「明けない夜はない」と自らを励ますが、夜明けはまだ遠い。聖書は、夜明けを語っていない。「光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった」(ヨハネ福音書1章:口語訳)。「闇が去って光が来る」のではない。「光は闇の中に輝く」のだ。闇は依然としてあり続けているが、その闇のただ中に光はある。私たちは勇気をもってコロナという闇を見つめようと思う。きっと闇の中に光を見出すだろう。それは十字架にいのちを見るように。コロナ感染に苦しむ人がいる。当然、闇を喜ぶことは出来ない。しかし、闇が深いほど私たちはそこに光を見出すことが出来る。

 無教会派の内村鑑三が1901年に「既に亡国の民たり」という文章を書いている。この時期内村は、足尾銅山鉱毒問題に関わっており、大日本帝国の現状に「精神の失せ」を見たのだろう。

「国が亡びるとはその山が崩れるとか、その河が干上がるとか、その土地が落ち込むとか云うことではない。(中略)、国民の精神の失せた時にその国は亡びたのである。民に相愛の心なく、人々に互いに相猜疑し、同胞の成功を見て怒り、その失敗と堕落とを聞いて喜び、我一人の幸福のみを思うて他人の安否を顧みず、富者は貧者を救わんとせず、その教育はいかに高尚でも、かくの如き国民はすでに亡国の民であって、只わずかに国家の形骸を存しているまでである」。

内村の言葉は、今のコロナの日本にも当てはまる。私たちは、亡国の民で終わるのか、それともその闇の中に光を見出すことが出来るのか。

つづく

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