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2023年4月23日 主日礼拝 石橋誠一牧師宣教「信じるとは―空の墓と復活、そして生きること」マタイ28:11−20

本日の聖書の箇所をお読みいたします。 マタイによる福音書28章11節から20節です。 口語訳聖書50ページです。 [音楽] マタイによる福音書28章11節から20節 お読みします。 女たちが行っている間に 番人のうちある人々が都に帰って、いっさいの 出来事を祭司長たちに話した。 祭司長たちは長老たちと集まって 協議をこらし、 兵卒たちにたくさんの金を与えていっ た、「『弟子たちが夜中に来て、 我々の寝ている間に彼を盗んだ』と言え。 万一このことが総督の耳に入っても、 我々が総督に説いて、あなた方に迷惑が かからないようにしよう。」 そこで彼らは金を受け取って、教えられた とおりにし た。そしてこの話は、今日に至るまでユダヤ人 の間にひろまっている。 さて、11人の弟子たちはガリラヤに行って イエスが彼らに行くように命じられた山に 登った。そして、イエスにあって拝した。しかし 疑う者もい た。イエスは彼らに近づいてきて言われた、 「わたしは天においても地においても、いっさいの権威 を授けられた。それゆえに、あなたがたは行って、 すべての国民を弟子として 父と子と聖霊との名によって、彼らに バプテスマを施し、 あなたがたに命じておいたいっさいのことを守る ように教えよ。 見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと 共にいるのである。」 以上です。 ただいまより牧師による宣教です。本日の 宣教題は 「信じるとはーー空の墓と復活、そして生きる こと」です。 宣教後、牧師の祈祷があります。 牧師の祈祷の後、全員で御言葉の前に静まる 時を持ちます。しばらくの間 黙祷ください。 皆さんおはようございます。 ネットでご参加の皆さんもおはようござい ます。 4月も早くも23日残り1週間となりまし た。 教会では2週間前にイースターを迎えて 教会の暦で言うと今は復活節という時を 過ごしております。 2週間前のイースター礼拝ではイエス キリストの復活を喜ぶとともに今年はお 一人の方の信仰告白とバプテスマ式が行わ れました。 私は牧師になって今年で10年目になり ますけれども 初めてバプテスマの司式を 担当することになりました。 受ける方ももちろん 初めてのバプテスマ。 先日にリハーサルをしてはいるんです けれども 初めて同士で2人とも緊張しておりまして 加えて あの巨体であります。 水の中だと大丈夫なのかなと、たかをくくっ てはいたのですけれども、いざ 倒そうとすると、このままでは支えきれそう にないと思って、二度ほど足をこう踏みしめ 直したわけですが、 そのまま倒すとですね、この下っていく階段 があるので、そこに頭をですね、ぶつけさせて しまったらいけないと思って、慎重に倒し ますと今度はですね、水に浮いてしまって 沈んでくれません、それで無理やりこう一生 懸命 沈めたらですね、長いと後から文句を言われ た次第であります。 その時は必死だったので全然気づいており ませんでしたけれども、水から、こうザバーッと 起こした時にですね、自然と大きな拍手が おこっておりました。 私も後から 録画を確認してですね普通バプテスマ式と 言うとなんか厳粛な雰囲気でですね 執り行われるそんなものだというイメージ がありますし、この教会も基本的にはその ようにして行っているつもりなのです けれども 昨年の 竹内さんの時もそうでしたけれども非常に ですね笑いあり 涙ありの 和やかな温かなバプテスマ式で、とても、うち の教会らしいなと思わされました。 改めて新谷さんのバプテスマ式が持てた ことを感謝したいと思います。 バプテスマはキリスト者として 生きることを決意し、皆の前でそれを表明し た人が受ける儀式のことであります。 特に私たちの教会バプテスト教会がやって おります全身を水に沈めるやり方の バプテスマ式は 水に沈めることによって 古い自分が死に、そこから 起こされることで新しい自分に自分として 生き始める。そのようなことを 象徴しているわけであります。 バプテスマ式は、昔はイースターにまとめて 行われていたそうでありますけれどもその 理由はよくわかります。 もっとも 毎週の日曜日はイエス・キリストの復活を 記念する日として主日と呼んでこのように 礼拝を守っているわけですから イースターでない主日にバプテスマを受け たからといってその意味合いが薄れるよう なことはありませんので、 イースターでなかった人もどうぞご安心 ください。 そのように新しく生き始めることを象徴的 に 復活というのであれば 復活を語るのもわからなくはないけれど イエスが十字架で殺された後、墓の中から よみがえって 弟子たちの前に現れたということを 信じなさいそう言われても無理だという方 は少なくないかもしれません。 しかしそれは現代に限ったことではなく 最初のイースターの朝からそうだったと いうことを、福音書は伝えているのです。 先ほど読んでいただいた聖書の箇所は マタイ福音書の最終章の一番最後の部分 福音書の終わりの部分の 記事であります。 弟子たちがガリラヤの山に登っていくと 復活のキリストが現れ、すべての国民を弟子 として 父と子と聖霊の名によって彼らに バプテスマを施し、2週間前の バプテスマ式の時もこういうふうに言って私 も 新谷さんにバプテスマを授けましたけれども 父と子と聖霊の名によって彼らに バプテスマを施し、あなた方に命じておいた いっさいのことを守るように教えよという いわゆる大宣教命令と呼ばれる言葉を 復活のイエスが弟子たちに語ったとされる その 有名な箇所であります。 しかし今日はその部分だけではなく直前の 箇所から読んでいただきました。 今日はむしろこの直前の箇所を中心にお 話ししたいと思いますけれども、あまり 礼拝の中で取り上げられることのない箇所 ですので福音書にこんなことも書かれてい たのか、と思われた方もいらっしゃるかも しれません。 4つの福音書の中でもマタイ福音書にしか 記されていないエピソードでもあります。 この記事の前提となる記事がこの少し前 27章の最後に出てきます。 少し読んでみますが 62節から。 あくる日は 準備の日の翌日であったが、その日に、祭司長 パリサイ人たちは、ピラトのもとに 集まって言った。 「長官、あの 偽り者がまだ生きていたとき、『三日の後に 自分はよみがえる』と言ったのを、思い出し ました。ですから、三日目まで 墓の番をするように、さしずをしてください。 そうしないと、弟子たちがきて彼を盗み出し、 『イエスは死人の中から、よみがえった』と、 民衆に言いふらすかもしれません。 そうなると、みんなが前よりも、もっとひどく だまされることになりましょう」 ピラトは彼らに言った。 番人がいるから、行ってできる限り、番をさ せるがよい」そこで、彼らは行って石に封印を し、 番人をおいて 墓の番をさせた。 これで27章が終わっているわけです けれども 最初のところにあくる日とあるのは、イエス が十字架で殺され 墓に葬られた日のあくる日、 翌日のことであります。 準備の日の翌日と書いてありますけれども 準備の日というのは、 安息日の前日のことでありまして 安息日は仕事をせずに安息しなければなら ないそんな日でありますのでその前日に 事前にあれこれ 準備をしておく、そういう日ということです。 その 翌日ということは、安息日当日ということに なります。 はっきり安息日と書けばいいのになぜか 準備の日の翌日と回りくどい言い方をして いるわけです。 そもそもユダヤ人たちはこの安息日というのが とても大事な日でありましたので その安息日に 遺体を十字架上にこうさらしたままにして おかないように、 足を折って金曜日のうちに 遺体を取り下ろそうとしていたということ が ヨハネ福音書に記されています。 その願いが聞き入れられてイエスの両側で 十字架につけられていた 犯罪者たちは足を折られてそれで絶命を するわけでありますけれども イエスがすでに死んでいたので足を折ら れることはなかったそのように ヨハネ福音書では記されています。 その代わり死を確かなものとするためだっ たのでしょうか。 兵士の一人が 槍でイエスの脇腹を刺したところ 血と水とがすぐに流れてたという風に言わ れています。 それを見たものが証しをした。そしてその 証しは真実である。そのようなことも わざわざ記されているわけであります。 そして 日が沈んでしまうと 翌日、ユダヤ教のユダヤ人たちの1日の考え 方では、日が沈むと次の日になってしまうと いうことですので そうすると金曜日の翌日、土曜日がですね ユダヤ人にとっては安息日でありますので その安息日に入ってしまう前、日が沈む 前、 夕方のうちに大急ぎでイエスの遺体を墓に 埋葬したというふうに言われています。 その様子を見守っていたイエスの女弟子 たちは、男弟子たちはみんな逃げ出してどこ に行ったかわからなかったわけですが、女の 弟子たちは家に帰って 香料と氷を準備した後 掟に従って安息日を休んだというふうに ルカ福音書には伝えられてい ます。失礼を承知でこんな言い方をさせて いただきますが、当時 低く見られていた女性たちでさえ 掟に従って安息日を休んだということが わざわざ記されているのに対し、 安息日をはじめとした 律法 掟を正しく守るように人々に指導していた はずの祭司長、パリサイ人たちが 準備の日の翌日つまり安息日の当日に、より によって 異邦人であるピラトのところに集まったと いうのです。 いかに宗教指導者たちが自分たちに都合の いいようにしか 律法を受け止めていないかということが わかるかと思います。 ともかく彼らは そんな無茶苦茶なことまでしてピラトの もとに集まり こんな 訴えをしたと言います。すいません。 すいません。 ピラトのもとに集まった 宗教指導者たちがピラトに言ったことです が 「長官、あの 偽り者 当然イエスのことでありますけれども、 あの偽り者がまだ生きていた時、三日の後に 自分はよみがえると言ったのを思い出し ました。ですから三日目まで 墓の番をするように指図をしてください。 そうしないと 弟子たちが来て彼を盗み出し、イエスは死人 の中からよみがえったと民衆に言いふらす かもしれません。 そうなるとみんなが前よりももっとひどく 騙されることになりましょう」 これは以前の宣教でも言ったことがあり ますけれども三日の後によみがえるという 復活予告は受難予告とともに 生前のイエスが繰り返し少なくとも三回は 弟子たちに語っていたことが福音書に伝え られております。けれども当の弟子たちは そんなことをすっかりなかったかのように イエスが捉えられると、みんなイエスを見捨 て 逃げ出してしまい 女たちからイエスの墓が空だった、イエスは 復活されたと聞かされても イエスの言葉を思い出さないのか なかなかそのことを 信じようとしなかったのに対し 祭司長やパリサイ人たちは イエスが死んだ直後に、イエスのこの 復活予告の言葉を思い出したというのです から、 褒められるべきなのかもしれません。 しかし彼らにとってイエスは 偽り者でありまして人々を 騙すものだというのです。 万に一つでも何かあれば、人々がますます騙さ れることになりかねない。だからイエスの 言った三日の後までは見張りを立てて何事 も起こらないことを確認させよう 何事も起こらなければ、イエスの言ったこと は嘘だったと 証明できる。そのように彼らは考えたの でしょう。 ところで、なぜ彼らはこれをわざわざピラト に言いに来たのでしょうか。 安息日に 異邦人と接するという危険を冒してまで。 墓を見張らせるだけでありましたら自分 たちのしもべに命じて見張らせることも できただろうと思います。 考えられることとしたら ピラトを巻き込むことによって ローマ帝国のお墨付きを得ようとしたと いうことでしょうか。 墓の番をするように指図をしてください。 そのような彼らの申し出にピラトは 番人がいるから行ってできる限り番をさ せるがよいと 答えたとされています。 これは 新共同訳では、あなたたちには番兵がいる はずだ行ってしっかりと見張らせるがよい。 と訳されておりまして 自分たちユダヤの兵を使うように言われた。 というふうになっております。 ところが 最近の協会共同訳だと 番兵を出してやるから言って思う通りに 見張らせるがよいという訳になっており まして 番兵はピラトの兵つまり ローマ兵を番兵にしたことになっている わけです。 訳としてはどちらの可能性もあるわけで ありますけれども、新共同訳だとわざわざ 自分のところに言いに来なくても自分たち で勝手にやったらいいだろう とピラトに 突き放された感じで 訳されているわけですけれども、後者、協会 共同訳だと 思惑通り ローマ総督の 協力を得られたということになります。 一体どちらなんでしょうか。 次の説も二通りの訳があります。 口語訳ではそこで彼らは行って石に封印を し 番人を置いて 墓の番をさせたとなっております。 新共同訳も 少し言葉は違うものの同じような内容の訳 になっておりますが 協会共同訳は後半が違っておりまして 口語訳は 番人をおいて墓の番をさせたというふうに なっておりましたが、協会共同訳は 番人とともに 墓を見張ったとなっているのです。 つまり祭司長、パリサイ人たち自身が 番人と一緒に 墓を見張っていたというのです。 この協会共同訳の訳を読んだ時 お偉い祭司長たちが 墓の番をするなんて しかも安息日にそんなことをするんだろう か 驚いたものです。 そんなわけないと考えた人が 口語訳や新共同訳のような 墓の番をさせたという訳にしたのではない かと思います。 けれども もし ユダヤ兵だけで番をしたのではなく ローマ兵を番人に出してもらっていたのだ としたら 彼らだけに任せるわけにはいかないので 自分たちの側からも見張りを出して一緒に 見張らせたということはあり得るだろうと 思います。 祭司長様方が 安息日当日に 犯罪者の墓番をずっとやっていました なんてことは、なかなか考えられません けれども ローマ総督に番兵を出してもらえたから 自分たちと自分たちのたてた見張りと一緒 に見張らせたということであれば 納得がいくように思います。 そうしますと今日の箇所の読み方も 定まってきます。 今日の箇所は 番人のうちのある人々が 墓で起こった一切の出来事を祭司長たちに 報告しに来たところ 祭司長たちは長老たちと協議して 兵卒たちにたくさんの金を渡して 偽証をさせた。そんなことが言われていまし た。もし 番人が皆、自分たちの支配下の者たちであれ ば、つまりユダヤ兵ばかりであったとしたら、 いわば見張りに失敗してしまった番人に たくさんの金を渡してまで 偽証させる理由がわかりません。 お前たち何やってるんだと 罰して終わらせたことでしょう。 ローマ総督から出してもらった兵卒だった からこそ、 お金を渡してまで 偽証してもらう必要があったと考えられ ます。 番人たちの側が 罰を恐れることもなく 起こったことの一切を正直に報告できたの も ローマの兵卒であれば、こそのことだ と 理解できるのです。 逆に一緒に番をしていたはずのユダヤ側の 番人たちは正直に報告するのが恐ろしい ものだから都に帰って来れなかったの だろうと思います。わざわざ 番人のうちのある人々が帰ってきたという 書き方がされているのもそのように 理解できるわけであります。 では、彼らが目撃したこととはどんなこと だったのでしょうか。 28章の1節以下を読んでみます。 さて安息日が終わって、 週の初めの日の明け方に、 マグダラのマリアとほかのマリアとが、 墓を見に来た。 すると、大きな地震が起こっ た。それは主の使いが天から下って、そこにき て石をわきへころがし、その上にすわったからで ある。その 姿は 稲妻のように輝き、その衣は 雪のように真っ白であっ た。見張りをしていた人たちは、 恐ろしさのあまり 震え上がって、死人のようになっ た。この御使いは女たちに向かっていった、 「恐れることはない、あなたがたが十字架にお かかりになったイエスを捜して いることは、私には分かっているが、もうここ にはおられない。 かねて言われたとおりに、 よみがえられたのである。 さあ、イエスが納められていた場所をごらん なさい。 そして、 急いで行って、 弟子たちに こう伝えなさい。 『イエスは死人の中からよみがえられた。見よ、 あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。そこ でお会いできるであろう』 あなたがたに、これだけ言っておく」 そこで女たちは 恐れながらも大喜びで、 急いで墓を立ち去り、 弟子たちに知らせるために 走って行っ た。 この記述の通りだとしますと 墓の番人たちが目撃したのは、女たちがやっ てきた時に大きな地震が起こり、主の使いが 天から下って石を脇へ転がしその上に座っ たこと。 その天使がイエスはよみがえられたと語っ たのを聞いた女たちが大喜びで墓を 立ち去ったということであります。 その間彼らは 恐ろしさのあまり 震え上がって死人のようになっていたと 言われていまし た。書かれてはいませんが、当然 番人たちは 報告に帰る前に、 墓の中をあらためて 天使が言う通り、空になっているのを確認し たことだろうと思います。 番人たちは 墓が空になっているのを確かめることは できたにしても 復活イエスを復活したイエスを直接見た わけではありませんでし た。ましてや 死体が墓の中で起き上がる瞬間を目にした わけでもありません。 実際に何が起こったか分からないが ともかく 墓は空になっていて 天使らしきものが言うにはイエスは 復活したのだというのであります。 その天使の言葉を 番人たちはどこまで 信じたのでしょうか。 確かに彼らは 劇的な場面神秘的な場面に 遭遇したわけです。 しかしそれはすごいというよりも 恐ろしい体験でありました。 死人のようになってしまうほど 震え上がって震え上がっていたわけであり ます。 同じく恐れに震えていた女たちは、この 突然現れた得体の知れない人物の言葉を 聞くと大喜びで出て行ってしまいました。 番をしていたローマ兵たちは この事態をどう受け止めていいのかわから ないまま、 しかし自分たちに取り立てて落ち度はない のに 事実として 墓が空になっていたそのことを 報告しないわけにはいきませんでし た。そんなローマ兵たちの報告を祭司長たち は、どこまで 信じたでしょうか。 天使の存在など信じていないはずの ローマ人が 天使 らしきものが語ったとされる言葉を交え ながら、いつのまにか 墓の中が空になっていたと 報告されたのであります。 イエスの弟子らしき女たちがやってきてい たということも当然 報告の中にあったことでしょう。 彼女らも最初は恐れていたけれど天使 らしきものの言葉を聞くと大喜びで 去っていったというのです。 そうであれば少なくとも女たちは天使の 言葉を信じてイエスが復活したと考えたの ではないか。 そのように 祭司長たちは考えただろうと思います。 女の戯言など誰も相手にしないかもしれ ないが、イエスの弟子連中はそれを利用して イエスは復活したと 宣伝して回るかもしれない。 そんなことになったら困るからこちらも手 を打たなければ。 ローマ兵の皆さん、 申し訳ないけれど私たちに協力してもらえ ないだろうか。 お礼は十分するので。 大丈夫、あなた方に落ち度がなかったことは よくわかっている。 ユダヤ兵の見張りの番の時に 盗まれたとか言ってピラト総督にはうまく 報告しておくから。 どうぞよろしく。 そんなやり取りがあったのかもしれません。 さらに 祭司長たちが考えた偽証を聞いた人々は それをどこまで 信じたでしょうか。 祭司長たちが考えた偽証とは 弟子たちが夜中にやってきて番兵たちが寝 ている間にイエスの死体を盗んだという ものでした。 これは聞いてすぐ嘘とわかるような 嘘であります。 寝ていたのならどうして 弟子たちが盗んだとわかるのでしょうか。 そして そんな 番兵失格であるような失態をなぜ番兵たち 自身が言って回っているのでしょうか。 どこにも信じられる要素はなさそうである のに、この話が長くユダヤ人たちの間では 広まったのだと言われてい ます。この話の方がまだイエスが復活したと 信じるよりも受け入れやすかったという ことなのでしょうか。 では、私たちはどうでしょうか。 彼らすべての状況を知る立場にあって、どれ が一番 納得できる立場か、そのように考える でしょうか。 それとも その全体を伝えているのがマタイ福音書の 著者なわけだから そんなキリスト教徒の偏った報告など 信用に値しないそう思われるでしょう か。今 毎週水曜日に行われている夜の祈祷会では ヨハネ福音書を続けて読んでおります。 この ヨハネ福音書は 徹底してこだわっている そういうことがいくつかありますけれども その一つに 信じるとはどういうことか、ということが あります 神の子であるイエスは様々な場面で 奇跡それをヨハネ福音書はしるしと呼ん だりしているわけですけれども、例えば水を ぶどう酒に変えたりだとか、五つのパンと二 匹の魚で五千人を食べさせたりとか そして最大のしるしが 復活の出来事であるわけですけれどもそう したしるし 奇跡を見て 信じることが本当にイエスを信じたことに なるのかということを 繰り返し 問うのであります。 そして福音書のほぼ終わりのところで 復活のイエスが 弟子に対してこのように言っています。 あなたは私を見たので信じたのか 見ないで信じる者は 幸いである。 今日、私たちが読んでおりますマタイ福音書 は見える形で復活の出来事を描いており ます。 空の墓も見て確かめられるものであります けれども 墓が空だったからといって 必ずしも 復活したとは限りません。 事実多くの人は 弟子たちが死体を盗んだという 偽証の方を 信じたのでありました。 天使も 輝かしい姿を持って女たちと 万人たちの前に現れ イエスはよみがえったと明言しまし た。だからといって そのように目に見える形で天使が現れ 耳に聞こえる形でイエスの復活を 告げられたからといって 番人たちがイエスを信じたかというと そんなことも伝えられてはいないのであり ます。 決定的なのは今日の箇所の後半 11人の弟子たち、ユダが裏切って 去っていったわけですから12弟子のうち の一人が抜けて11人ということに なっているわけですが 11人の弟子たちが女たちの報告を聞いて ガリラヤに向かい 支持された山に登ったところ 復活のイエスと出会います。 目に見える形で 復活者と出会ったのであります。 それでも 疑う者もいたと記されているの です。生前のイエスと一番近くで行動を共にしていた11弟子の中でさえ 復活のイエスと直接出会っても疑うものがいたというのであります。 それほどに復活が現にあるということを 信じるのは 難しい。そのことを伝えているのだろうと思います。 そうであれば、私たちが信じるのはなおさら難しいことに違いありません。 これだけ科学技術が発達し理性的に思考することが 求められる時代にいまだに 復活だなんて言っているのは時代錯誤も甚だしいと思われても 仕方がありません。 理性を押し殺すのではない限り復活なんて 信じられない。そのように思われるかもしれませ ん。けれども私たちが復活を、イエス・キリストの復活を 信じるのはただ死者の復活というものがあり得るか どうかを信じるということではないのです。 イエスが命をかけて伝えられた神の国神の愛の支配する世界が イエスが殺されて終わってしまったわけではないということ。 イエスは復活してでもそれが実現するということを 示し続けてくださっていること。そして 今日の箇所に伝えられていたようにその実現のために 私は世の終わりまでいつもあなた方と共にいると 約束してくださっていること。そのことを 信じて生きることが私たちが復活を信じるということなのだと思うの です。ですから先々週のイースター礼拝で新谷さんがそのような生き方に歩み出した ことをとても嬉しく思いますし これからもそのような生き方を共にしてくださる方が 与えられていくことを切に 願っております。 あなたはどうでしょうか。自分の常識や思いに反することを 否定し続ける生き方をするか、共にいると 約束してくださっている復活のキリストを信じて歩む生き方に 踏み出すか、どちらでしょうか。 お祈りをいたします。 主なる神様 4月の第四の主日こうしてあなたに集められ 共にあなたに礼拝を捧げられる恵みに心から感謝を致します。 あなたが私たちを日々生かし愛を持ってその 一人一人の歩みに伴っていてくださることを 信じます。けれども 私たちの生きる現実を見渡すとなかなかそのことを 信じることができない難しい そのような 現実を目にいたします。そのような中で苦しんでいる人々が たくさんいることを私たちは知っております。 私たち自身がそのような悩み苦しみの中に 置かれることもあります。 そうした中でなお私たちが あなたが共にいてくださること あなたが愛を持ってこの世界にかかわり続けてくださっていること そのあなたの働きに 連なって生きることが本当に私たちにとっての 喜びとなることそのことを信じて 歩んでいくことができますように、私たちの歩みを 励まし導いていてください 今日この場を覚えながらもここに集うことのできない お一人お一人の上にあなたの守りがありますよう に、主イエス・キリストの御名によってお祈りをいたします。 アーメン

主日礼拝に出てくることのできない方はぜひ、礼拝の時間に合わせて祈り、賛美し、聖書をお読みください。

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週報巻頭の牧師エッセイは、日曜の12時ごろに教会ホームページに掲載されます。こちらからご覧ください。
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【主日礼拝】
前 奏                 奏楽者
聖 書                 司会者
頌 栄 新生671番            一 同
主の祈り                一 同
讃美歌 新生3番             一 同
祈 祷                 司会者
聖 書 マタイによる福音書28章11−20節
宣 教 「信じるとは——空の墓と復活、」
           そして生きること 」
                 石橋誠一牧師
祈 祷                 同 上
傾聴祈祷(黙祷)
讃美歌 新生252番             一 同
献 金
頌 栄 新生674番            一 同
祝 祷
後 奏



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