南青山での「児童施設建設」をめぐる住民反対運動が話題となっている。「地価が下がる」と反対住民は言う。僕は言われたなあ。たぶんそんなことで地価は下がらない。どちらかと言えば「南青山の住民は冷たいと思われるのは嫌だから南青山には住まない」という「静かなるエゴイスト」が南青山を選択肢から外すことになり、結果「地価が下がる」ことはあり得る。そうなると「反対した人々に対する反対運動が起きるかも知れない」。こうなるとわけがわからない。さらに「南青山はレベルの高い人が住む地域なので貧しい子どもたちが住むのはかわいそうだから反対だ」と鼻もちならない「上から目線」で語る人の姿にうんざりするが、「やさしさ」に潜む傲慢さは決して他人ごとではない。気を付けたい。反対に南青山の住民がこぞってこれらの施設を受け入れ支えれば南青山の価値は上がると思う。
このような「憎悪」とも思える反対はどこから来るのか。一つは「地価」に象徴される「お金」の問題。お金が大事なのは誰しも同じだ。しかし、いのちに比べるとお金はその従属物に過ぎない。いのちのためにお金が存在するにも拘わらず「お金」が困難を負わされた子どもの存在やいのちを拒否する理由となる。次に「恐怖の支配」がある。反対する住民は児童養護や社会的養護の実態を知らないのだと思う。人は知らないもの、わからないものに恐怖を感じる。だれでも「怖いもの」は避けたい。だが、問題は「それは本当に怖いのか」ということだ。真実を見る努力をしないと本当の議論にはならない。では、どうするか。学ぶしかない。人は、なぜ勉強しなければならないのか。それは、知ることで「恐怖を減らす」ためだ。まじめに学ばないと世界は恐怖に満ち、いずれ恐怖を取り除くために人は暴力的になる。南青山の反対住民には高学歴の人が多いらしいが、結局肝心なことを学ばないまま大人になってしまったのだろう。これは日本の教育自体の問題でもある。
だが、学び直しには時間が足りない。子どもに戻ってやり直すこともできない。じゃあ、どうする。建てるしかない。やってみて議論したらいいではないか。どれだけ地価が下がるのか、どれだけ住民が危険にさらされるのか。そして、そんな「ハイソな地域」やってきた子どもがかわいそうな目にあうのか。やるしかない。僕は、反対運動に何度もあったが、結局は建ててきた。建った後は、大きな問題になっていない。住民説明会で「無茶苦茶言った人々」は、この現実をどう思っておられるだろうか。「言うほどもなかったなあ」と思って下さっているのならそれでいい。過去の発言を謝る必要はない。なぜならば、人はそのように出会い、出会いによって学び、そして変わっていくのだ。それでいいのだ。
イエスが弟子の足を洗う場面がある(ヨハネ福音書一三章)。その意味を図りかねた弟子のペテロにイエスは、「わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう」と答える。まず、やってみる。そして、その意味を後で知る。そうなのだ。恐れないで、まずやってみよう。そう思わないか。
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