生きる

12/2巻頭言「葬式キリスト教」

 仏教が「葬式仏教」と言われて久しい。言うまでもなく仏教の在り方を批判したことばだ。「葬式」や「法事」に明け暮れる仏教が揶揄されている。「亡くなる前に呼ばれるのが牧師、亡くなった後に呼ばれるのがお坊さん」。上手いこと言う人がいる。私のことばだが・・・。
 だいぶ前のこと、亡くなった教会員の「ご主人」がお寺の総代さんだったことがあった。思案された結果、亡くなった妻の信仰を尊重し教会での葬儀を決断された。それを聞いたご住職。「寺の総代が教会で葬儀とは何事か!」と腹を立てられた。総代さんは「あんた一度も見舞いにも来ないで何を言っているのか。あの牧師さんは、何度も見舞ってくれた」と反論された。「坊主が袈裟姿で病院をうろうろすると嫌われるから行けない」と自己弁護を始めた住職に「あなた背広も持っていないのか。だったら今度背広を買ってやる」とダメ押しされたという。この「ご主人」、その後も礼拝に出席されたがキリスト者になることはなく仏教徒として生涯を終えられた。
 すべての僧侶が「葬式仏教」をしているわけではない。門徒や地域のお世話をし、様々な困難を抱える人を助けている僧侶もおられる。安易に「葬式仏教」などとは言えない。一方で日常的な人との関わり、特に教会員以外の方々のお世話はしない、社会的な働きは担わない。それでいて葬式は「家族の意向でお寺にお願いするしかなかった」と嘆く牧師がいる。仏教を揶揄している場合ではない。キリスト教会は大丈夫か?
 現代社会において「葬式」は、実は大問題となりつつある。「葬式」は「家族の行事」。よほど「偉い人」は、国葬とか社葬とかしてもらえるが、庶民は家族にやってもらうしかない。だが、現在この家族との縁が切れた人々が増え続けている。社会の無縁化が進み、葬儀を出してくれる人がいない。「お葬式をしてくれる人がいない問題」は、実は社会問題となっている。例えば居住に関する問題だ。現在全国で空き家は八百万戸あると言われているにも拘わらず、入居拒否によりアパートに入れない人たちが増えつつある。その筆頭が「高齢単身世帯」だ。亡くなった時、引き受けてくれる人がいない高齢者を引き受けたくない大家さんが増えている。
 だったら家族以外、すなわち「赤の他人」が葬式を出すことが出来れば、そんな心配はなくなるはず。これまで家族が担った役割をいかにして他人が担うか。この「家族機能の社会化」は、現在最も重要な課題であると言える。そうなると「葬式仏教」の存在意義はある。仏教がキチンとその役割を果たしていくことで「居住困難者」が救われる。いや、仏教に留まらず、それは宗教者の任務だと言える。当然、お金もうけの葬儀がダメなのは言うまでもないが。
 東八幡キリスト教会は「葬式キリスト教」を担ってきた。ホームレス状態の方々のほとんどは家族の元には戻れない人々だった。そのままでは「無縁仏」となる。だから、私達はそれらの方々の葬儀をし、遺骨を引き受けてきた。それは、あるべきキリスト教会の姿だったと言える。亡くなる前にも呼ばれ、亡くなった後も担う。そんな教会であり続けたい。

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