(西日本新聞でエッセイと書くことになった。50回連載。大丈夫かな)
今日から連載が始まる。私はキリスト教会の牧師であり、困窮者支援のNPO法人抱樸(ほうぼく)の代表でもある。そんな現場で、日頃、考えていることを書いていきたいと思う。しばらくお付き合いいただきたい。
コロナ禍は私達を苦しめ続けている。長引く「禍(わざわい)」の中で多くの人が「漠とした不安」を抱えている。追い打ちをかけるように戦争がはじまり、物価高が襲った。急激な円安で海外からの観光客が押し寄せている。それは良いことでもあるが、日本が「安くなった」ようにも見える。実質賃金は上がらず年金は下がる。
こんな時だからこそ「なんとかなる」と声を大にして言いたい。なぜか?それはよくわからない。根拠などない。だが本当の希望は根拠なく「なんとかなる」と言い切ることからはじまると思う。証拠を見てからなら誰でも言える。当選していることが分かっている宝くじに希望を託す人はいない。それはすでに現実だからだ。
知り合いの野宿のおじさんが競馬で当てたと喜んでいた。お金が無いのにどうして馬券を買えたのかと尋ねると「馬券なんか買っとらん。でもな、当たり馬券を間違って捨てる人がいるんよ。だから一日中落ちてる馬券を拾い続けるんよ。そうしたらくさ、当たったっちゃ」。いや恐れ入る。なけなしの金で入場料を払い一日中馬券を拾い続ける。彼の中には根拠のない希望がある。それがあるからこそ探し続けることができる。希望の持てない人は「そんなことは絶対にない」と思うから鼻から探しはしない。だから、当たることもない。
皆さんもどうだろう。まずは「なーんーとーかーなーるー」と大声で言ってみては。「なんで?」と尋ねられたら「たぶん」とでも答えたらいい。声に出して言うことが今は大事だと思う。あんがい「当たる」かも知れない。僕は「なんとかなる」と言い続けてやってきた。だから探し続けたい。
「なんとかなる」書いているうちにそんな気がしてきた。
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