(先日東京渋谷で起きたホームレス女性の殺害事件についてWEB論座用として準備している原稿です。今回は、最終回)
5、電源の入らない携帯電話がつながる日
彼女には、もう一つ所持品があった。「電源の入らない携帯電話」だ。どんな思いで携帯電話を握りしめていたのだろう。かつてその携帯電話先にはどんな人々がいたのだろう。その人々は、彼女が亡くなったことを知っているだろうか。さらに、親戚の連絡先のメモも見つかった。
Oさんは、誰かとつながっていたかったのだ。起動することもない携帯電話を持ち続けたOさんは、いつの日か、その電話に再び誰かがかけてくることを待っていたのだと思う。いつの日か、懐かしい人々に電話をする日を待っていたのだ。しかし、その夢はもう叶わない。
だから最大の「教養」をもってOさんのことを想像したい。「電源の入らない携帯電話」を持ち続けた路上生活者Oさんのことを考え続けたい。彼女の思いを想像したい。それがあるべき「教養」なのだ。
それが出来たなら、次に私たちは連想するのだ。この社会で「電源の入らない携帯電話」を握りしめている人が他にもいるであろうことを。今、この時に、すでに鳴らなくなった携帯電話を「この世界とのつながりの証拠」であるかのように握りしめる人々を連想するのだ。
そのイメージが沸いたなら、その携帯電話が再びつながるためには何をすべきかを考えるのだ。すべては想像から始まる。私たちは「教養ある民」でありたい。そうでなければこの国は「野蛮人の国」で終わる。二度とこのような事件を繰り返してはいけない。だから、僕は彼女のことを考えている。 終わり
(少しスペースが余ったのです。少し書きます)
30年前、北九州において中学生によるホームレス襲撃事件が相次いだ。その被害者の親父さんが言った言葉が忘れられない。「深夜ホームレスを襲撃する中学生は、家があっても帰るところがない。心配してくれる人がいないのではないないか。俺はホームレスだから、その気持ちわかるけどなあ」。このことばに驚愕した。なぜなら、ここに加害者と被害者を超えた連想と共感があるからだ。
被害者と加害者。それは越えられない現実なのか。あるいは、越えてはいけない一線なのか。一見絶対的断絶に見える両者が、同じテーブルにつけるなら、この悲惨な事件は、次の社会を作る材料になるかも知れない。いや、次の社会あるいは、次のいのちとつなげなければ、連想も共感も無意味である。私たちは、この事件を同時代人としての責任の下、キチンと受け止めなければならない。
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