今、街はクリスマス一色。行き交う人々は気忙(きぜわ)しそうだが、楽しそう。「ミッドタウン」と名付けられたお洒落なビルはイルミネーションに輝く。そんな東京の街を眺めながら「きれいだなあ。平和だなあ」と思う。しかし現実は違う。
戦争は止むことなく続いている。眼前の光景と同じ世界の中で殺し合いが続いている。ピンと来ない。だが今も誰かが殺されているのは間違いない。
夜だというのに電車は混んでいた。僕の前に立つ二人が話している。「ウクライナってどうなったっけ」。「まだやってると思うよ。それにしてもオオタニすごいね。いやほんと」。車内の液晶画面には派閥からのキックバックをもらった議員が意味不明の釈明をしている。しかし、数秒後にはコマーシャルに変わっていた。
情報の洪水の中では「戦争」も一つの「ネタ」に過ぎない。いや「ネタ」で終わるかどうかは僕次第なのだ。「ネタにされた人々」は今も殺されようとしているし、ニュースで知った「あの子」はすでに死んでいるかも知れない。「ネタ」で済ますことなど出来るはずはない。戦場をさまよう人々、泣き叫ぶ子どもたち、兵士、瓦礫の中の死者。彼らが僕を見ている。直接遭ったわけではない。ネットで、テレビで、新聞で知ったに過ぎない。当然、彼らは「ネタ」でもなく「コンテンツ」でもない。
しかし、申し訳ないことに僕はそれを「ネタ」程度に済ませてしまう。彼らに向いた心が次の瞬間次へ向かう。ワイドショーがガザからオオタニへと「ネタ」を変えるように。イルミネーションは数日後には姿を消す。「季節ネタ」だからだ。
だが、彼らの「残滓」は僕の中に確かにある。「残滓」とは失礼かも知れないが僕の中にはそれほどしか残っていない。僕にとって「残滓」に過ぎない彼らだが、「平和だなあ」などと呑気なことを思う僕を彼らは鋭く刺してくる。鈍感な僕でも少々痛みを感じる。輝くイルミネーションを眺めつつ電気が消えかかったガザの病院を想像する。暗闇に炸裂するミサイルの閃光を思う。「忘れないで」「ネタで終わらせないで」との静かな細い声が聞こえる。
クリスマスはケーキと同じ。数日で期限は終わる。もはや「季節ネタ」だ。しかし元々は人と世界の現実の中で起こった出来事だった。ヨハネ福音書はクリスマスを「光が闇の中に輝いた」と表現した。それほど「闇」が深かったのだ。出産迫る若夫婦を助ける人はおらず馬小屋で子どもを産まざるを得なかった。大ローマ帝国はすべてを支配し、ユダヤの王は自己保身しか考えない。宗教は堕落し、人々は暗闇の中を歩いていた。そんな世界の現実は一二月に限ったこと、つまり「季節ネタ」ではない。そこに描かれた「闇」は、ウクライナやガザにまで続いている。その闇の中でなお生きようとする人の姿、生まれるいのちがある。そんな現実はクリスマスツリー(季節ネタ)からは想像できない。
「ネタ」で終わらせないために僕は何をすべきか。闇を見つめるしかない。深い闇の中に自分の現実を見るしかない。そこにこそ本当の光が宿っていることを確かめたい。ウクライナで、ガザでなお生きようとする人々を想像しよう。僕の中にある彼らの「残滓」から痛みと叫びを感じ取るのだ。クリスマスの街角でそんなことを考えていた。
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