12/12巻頭言「あれから三年―松ちゃん、会いたいよ その㉞」

「解決型」の出口は「解決」だ。だから苦しい。いくらやっても解決しない時があるからだ。支援員は自らの無力を責め、当事者は失敗経験を募らせ、自信を失う。その後、支援は終了する。国の困窮者支援制度も「解決型」であるため原則「支援開始から支援終結」の期間が定まっている。それでだめならどうするのか。
だから伴走型支援が必要となる。なぜならば、解決しなくてもつながり続ける、それが伴走型の良さだからだ。少数の専門職の相談支援員が対応するのが解決型のスタイルだとするなら、解決を前提としていない伴走型は「つながり」を目的とする分「つながりが多い方が良い」と考える。「少数精鋭」よりも「量」で勝負する。「素人が量でごまかす」というのもなんだが、そのイメージが間違いではない。
家がない人には家を。仕事がない人には仕事を。食べられない人には食物を。それらすべては解決されなければならない生存権に関わる問題である。だが、それが確保できたとしても「それで安心」とはならない。それらは無くてはならない条件ではあるが「その人がその人として生きる」ということにおいては十分ではない。
松ちゃんの場合、最低限度必要を何とか手に入れたにも拘わらず、それを何度も失いかけた。しかし、今回は明らかに違った。何度も繰り返し起こる(起こす!)問題にも拘わらず松ちゃんを支え続けた人々がいたということに加え、今の松ちゃんは「奥田の面倒を見ている」という気持ちが確かにあったと思う。人には出番と共に役割が必要なのだ。
役割を与えるため、意図的に松ちゃんに弱音を吐いたわけではない。こちらにそんな余裕はない。だがあの時、僕はなぜか松ちゃんに電話をした。なぜ、松ちゃんだったんだろう。相談しても仕方ないことだとは百も承知。当時厚労省で話し合われていた「困窮者支援の新しい仕組み」について松ちゃんにアドバイスを求めたかったわけではない。いや逆だった。もし、あの時点で「正論」で慰められたら身がもたなかったと思う。
松ちゃんは「大したこと」は言わない。松ちゃんをバカにしているわけではない。僕があの日、求めていたのは「答え」や「解決」などではなく「松ちゃん」そのものだったからだ。えらく年上の方だけど「松ちゃん」と呼べる松井さん。その「気の置けない存在」、つまり「遠慮や気遣いをする必要がない」人である松ちゃんが必要だったのだ。厚労省をはじめ東京の会議で僕は気を使いまくっていた。わからない用語や本の名前が話題になると机の下で必死にスマホでググった。あまりにいろいろなことを知らない自分が恥ずかしく思えた。でも、知らないと言う勇気はなく、「知ったかぶり」で乗り越えた。僕は疲れていた。松ちゃんは、毎回、笑いながら「奥田さんも大変やなあ。まあ、いろいろあるわ。はよ帰っといで」と言う。たまには「奥田さんは偉い。みんなのために頑張っている」と褒めてくれてもいいものだが、そういうことを言わないのが松ちゃんだった。いや、だからこそ僕には松ちゃんが必要だったのだ。
僕らは「まあ、そんなことぐらいある」と言い続けてきた。今は松ちゃんが「まあ、いろいろある」と言ってくれる。人の本質を突いた言葉が「いろいろある」であり「そんなこともある」なのだ。松ちゃんは、僕の電話を受けるという役割を得て一層元気になっていった。僕は「松ちゃんとのつながり」を東京の雑踏の孤独の中で感じていた。(第一部終了)

つづく

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