生きる

11/25巻頭言「金子千嘉世先生追悼文」最終回

(10月20日に金子千嘉世先生が召された。葬儀には行けなかった。それで勝手に追悼文を書いた。)
 でもね、聖書で「栄光」とくると気をつけなくちゃいけない。聖書と言うか、イエス・キリストの場合、「栄光」は少々難儀するわけです。そう、「恵まれた女」と同じです。「栄光から栄光へ」は、手放しでお花畑をスキップするようには喜べない。パウロはそれを「主と同じ姿に作りかえられていく」と言うわけ。千嘉世さんは、今から最後の闘いに臨む。それはイエスの十字架の姿へと作りかえられることだから、そんなに楽ではないでしょうね。怖いね、恐ろしいね。あのイエスもゲッセマネで弱音を吐いたぐらいです。「この盃を取ってくれ」と。あなたは最後まで「恵まれた女」です。楽にはならないだろう。でも、それこそがイエスの姿に作りかえられること。それこそが栄光から栄光への道行き。胸を張って栄光の道を歩んで行きなさい。すると十字架の主が復活されたように復活のいのちに生きることでしょう。
 千嘉世さん。ありがとうございました。60歳は早すぎる。神様に文句を言います。でも、忘れないよ。もう、マッサージしてくれる人もいないので、連盟の会議には行きません。なんて言ったらどんなに叱られるかわからないので、寂しいけれど今年の総会にも顔を出します。日本は、これから大変な時代に突入することでしょう。腰まで泥だらけになりながら「進め」と馬鹿は叫ぶでしょう。だから、一緒につくった平和宣言を大切にして生きていこうと思います。ではまた。
奥田知志

【後日談】
 今年も連盟総会に出席した。当然千嘉世先生はおられない。この間も大勢の人々を見送った。どなたにせよ、引き裂かれるように人は別れていく。後ろ髪をひかれると言うが、まさに、後悔先に立たずなのだ。だが、そのしんどさを引き受けるしかない。なぜならばその「しんどさ」は「つながりの証」であるからだ。「携帯」を落として大騒ぎしている私達だ。愛する人が死んだのだ。「新しいのを買えばいい」では済まない。この間私は「絆は傷を含む」と言ってきた。生きてつながっている時は、どうしても互に傷つけ合う。それを忌避せず生きていくことが「人としてのあるべき生」と言いたかった。さらに、死は絆故の傷を明確に私達に刻みつける。絆があった故に死が「しんどい」のだ。それは、取り返しのつかない別れである故に「しんどい」のだ。生きている時の絆の傷は、次を生み出すこともできる。しかし、死別の傷はどうすれば回復するだろうか。イエスは、人々との出会いの中で多く傷つき、ついには十字架で殺された。この現実に弟子たちは立ち直ることが出来ない傷を負った。なぜなら、彼ら全員がイエスを見捨てたからだ。この取り返しのきかない傷を抱えた弟子たちは、どうやって生き延びることが出来たのか。それは、復活信仰による。愛する故に、絆故に傷ついた人が癒されるために「復活」は必然だったのだ。私達は、最後の希望を持っている。それだ復活だ。私達は再会するのだ。その時にこの傷は癒されるのだ。その時まで、愛した人々の傷を大切に生きていこう。その痛みを忘れたら、再会の日、私はそれが誰かを思い出せなくなるような気がするから。
(おわり)

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