社会

11/10巻頭言「見えないがある『かんじんなもの』―支援の本質」

10年前。リーマンショックの後、次々に路上に若者たちが現れた。夜の路上で「大丈夫ですか?」と声をかける。大半の若者が「大丈夫です」と答える。僕から見れば全然「大丈夫」じゃない。なぜ、彼らは「助けて」と言わなかったのか。
第一にプライドがあったと思う。「ホームレスと一緒にされちゃ困る」という思いか。第二に利用できる制度などに関する知識が少なかったこと。知らないと求めない。当然だ。第三に「極端な自己責任論社会」になったこと。「助けてと言っても『なにを甘えているんだ。努力が足りない』と言われるだけだ」と彼らは言っていた。「言わない」のではない「言えわせない」のだ。第四に「孤立」。人は自分の状態や生きる意味を「他者」を通じて知る。路上は「他者性」を失った世界だ。僕から見た路上の若者は、誰もが「崖っぷち」に立っていた。でも、本人は解っていない。横に座って話し込む。10分、20分、30分・・・だんだん彼の顔色が変わり「なんとかなりますか」と言い出す。それは他者である僕が「君、もう一歩下がると落ちて死ぬよ」と言い続けたからだ。人は、自分の状態を知るために「他者」を必要としている。出会いの中で自己認知が担保されるが、孤立状態では難しい。
そして第五。これが一番大変。どんな制度があるかも知っている、自己責任論は社会が無責任であり続けるための言い訳に過ぎないことも知っている。自分がどのような状態かも。にも拘わらず「助けて」と言わない。なぜか。「生きる意欲」が無いからだ。「その気になれない」からだ。そんな絶望の深淵で冷え切った人の心がもう一度鼓動を打つためにどうしたらいいのか。困窮者支援の本質はそこにある。かんじんなのは「もう一度生きようと思えるか」であり、「人の心に灯をともすこと」だ。自立はその後の話。数値化することも、お金に換算するも出来ない。かんじんなものは見えないからだ。しかし、見えなくても「かんじんなもの」はあるし、それこそが支援の目的なのだ。
この間「自立支援」が強調され過ぎた。困窮者支援においては、「就職」と「増収」が支援成果の「目安」とされた。しかし、かんじんなことは見えないのだ。「キツネは言いました。『さっきの秘密をいおうかね。なに、なんでもないことだよ。心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目に見えないんだよ』『かんじんなことは、目には見えない』と王子さまは、忘れないようにくりかえしました。」(『星の王子さま』より)。
目には見えない「かんじんなもの」を獲得することが支援の本質なのだ。「かんじんなもの」は心で見なければならない。制度も支援者も、この見えないが確かにある「かんじんなもの」を得るために、どれだけ「心」を耕すことができるだろうか。心が置いてきぼりになってはいないか。少々心配だ。
パウロは言う。「わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである」と(第二コリント4章)。

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