私が反対するのは「国葬」とした点にある。それが法的根拠を欠くという点は法治国家にとって問題だ。私は、それ以上に「悼みの強制」が問題だと思っている。僕にとって安倍さんの死は「三人称の死」に過ぎない。「国葬だから」と「二人称の死だと思え」となればそれは無理な相談だ。岸田総理は、8月10日の記者会見において「故人に対する敬意と弔意を国全体として表す儀式」であると説明した。その「国全体」には、いつのまにか僕も含まれていた。僕のこころに勝手に入って来られては困るのだ。
「故人を悼む」というのは、その人との関わりの中で必然的に起こる「心の営み」である。極めて「個人の内面」に関わる事柄に国は関与してはならない。菅前総理が「友人代表」として語られた。心のこもったメッセージだったと思う。だが、それは「国葬」でなくてもいいはずだ。それでも「国葬」をやりたい理由はどこにあるか。「感動的」と今朝から繰り返し報道される「友人のことば」が矛盾を覆い曖昧にしてしまう。ポピュリズムと呼ばれて久しいが、政策や理念ではなく、人の感情を握る者が政治や国を左右してしまうことに正直不安を感じる。
私は「つながり」の中で故人を悼んできた。そのために元来「赤の他人」に過ぎない個々人が「つながり」合い、家族のような関係を構築するために努力を重ねてきた。「あなたを失い私の心が悼んでいる」という極めて内面にある正直な思いで「葬儀」に臨んできた。今回の「国葬」は、人として最も大切な「心の営み」に国が土足で踏み込んだように思えたし、これまでの私たちの営みがないがしろにされた気もした。困窮・孤立に取り組んできた者として、さらに宗教者として、私は「国葬」には反対だ。
国家が故人を英雄化する時、「戦争への道」が開かれる。死を利用して人の気持ちを操作するなど絶対にあってはならない。「三人称の死」は「三人称の死」に過ぎない。「二人称の死」は、具体的で限定された「つながり」に任せるべきだ。ちなみに「安倍家」の葬儀は、事件数日後に芝の増上寺にて身内で行われている。
改めてはっきり言う。僕は、自分の「心の営み」に正直に生きたいと思う。だから、放っておいていただきたいと思う。
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